カテゴリー別アーカイブ: その他雑文

運転免許更新をする

7月1日の青空
7月に入って真夏を思わせる青空の下をドライブして、くにびき大橋を渡ると宍道湖にはしじみ漁の船が多く出ていました。視線を右に移すと白い病院が朝日に映えてそびえていました。つい先日まであそこから宍道湖の船を見ていたのだと思うと、なんだか不思議な気がします。

今日は、運転免許の更新に行ってきました。短い退院の間に、やるべきことはやっておかないといけません。運転免許は写真が必要ですし、髪の毛が抜ける前に早めに行っとくべきだと思いました。まあ、脱毛に備えてもうずいぶん短髪にしているのですが。

受付が始まる8時半過ぎには到着し、お金を払い、適性検査をし、写真を撮って9時過ぎには講習が始まりました。

平成元年に普通免許を取得したので、はや免許を得てから四半世紀、このたびようやくゴールド免許になりましたので、講習時間も30分。これなら体力がなくても耐えられるというものです。30分の講習はテーブルもなく、ただ椅子に座って、講師がこの五年間の法改正について説明をするのをスライドをみながら聞くだけで終わりました。

最後に新しい免許をもらい、まじまじと見ました。次の有効期限の「平成30年」という数字がとりわけ重くのしかかってくるような気がしました。5年というのは短いようで意外と長いものです。それは5年前の免許に写った自分の顔と、今日の顔との変貌ぶりが物語っています。

5年後の生存率が半々のぼくにとっては、これから5年後、その平成30年は、とりあえず生きのびる目標の年になるのだと思いました。運転免許更新ができるかどうかというのが、目安になるなんて、わかりやすくていいじゃないかと思います。

大病をすると5年一区切りというのが本当に身にしみます。白血病の時に感じました。5年という歳月が経つと、病気と戦うという気持ちは消えて、病気とともにあるのが日常になるのです。毎日薬を飲むのは三度三度食事をすることと同じになり、ただちょっと血液が他の人とは違う普通の人になる、そういう心境に達するのでした。

だからまた今回も、生きていれば、5年後にはきっとこの身体が当たり前になっているのだろうと思います。病気のことに煩うこともなく、毎日の生活に悩みながら生活をしていることでしょう。そういう普通の人になるのが、次の目標です。

第1クール第15日 ジェムザール中止と第1クールの終了

今日は第1クール最後のジェムザール投与の日。抗がん剤が入るとまた食欲が落ちるかもなあと思いながら、朝食後のコーヒーを飲んでいたら、主治医の先生が今朝の血液検査の結果をもってきまして「今日の点滴は中止します」と、予想外なことを言われました。

渡されたペーパーを見ると、血液検査の値がずいぶん下がっていました。白血球は前回の約半分の1800まで落ちています。赤血球は前回よりもわずかに落ちて2.76。血小板も前回の約半分の4万9千になっていました。ここ数日、ブログではずっとしんどいなあと言ってきましたが、この値ならばしんどいのも当たり前の数字ではあります。

前回輸血を受けたときはもう少し値が低かったので、まだ輸血を受けるまではいきませんが、血液状態はあんまりよろしくありません。それでもこれくらいの値なら想定内のはず。ただ、今回は、前回の採血との落差が大きいために、更なる抗がん剤投与がためらわれたのでしょう。

しかし先生は「これで第1クールを終了しましょう」と更に意外なことを言われました。1クール通常3回投与すべきジェムザールを2回で終了してもいいものか、心配になって尋ねたところ、今回は病変があるわけではなく、予防的な投与であるので効果がどうか判定ができないが、副作用がこれだけ出ているということは、抗がん剤もまた2回の投与でそれなりに身体に行き渡ったと考えられるから、ということでした。

今後は血液の回復を目標にし、日常生活に支障がないほどに回復したならば一度退院するということになります。今日は白血球を増やすためのG-CSF製剤を肩に注射しました。このあと木曜日か金曜日に採血をして、その結果回復が順調であれば退院だそうです。

白血球が2000を切って、感染症がいよいよ心配事になるので、マスクを着用し、できるだけ清潔にするように申し付けられてはいます。しかし、貧血というのは身体の怠さはあっても、痛いとか苦しいとかいうこともないので、自分ではそれほど深刻に捉えていませんでした。それだけに第1クールのあっけない幕切れに、少々戸惑っています。張り詰めていたものが急にとけてしまったような、空ろな気持ちです。

夏目漱石「思い出すことなど」

夏目漱石は1910年に療養先の修善寺で大吐血をして、危篤となりました。しかし、その時漱石は自分が30分の間人事不省に陥ったことを全く理解していませんでした。その時のことは「思い出すことなど」に詳しく書いてあります。

強いて寝返りを右に打とうとした余と、枕元の金盥に鮮血を認めた余とは、一分の隙もなく連続しているとのみ信じていた。その間には一本の髪毛を挟む余地のないまでに、自覚が働いて来たとのみ心得ていた。ほど経て妻から、そうじゃありません、あの時三十分ばかりは死んでいらしったのですと聞いた折は全く驚いた。

この項を最初に読んだ若い時には、そんなものかなという思いしかしませんでしたが、今では漱石の書いたことがすっかりよくわかるような気がします。

今から2年前虫垂炎で入院をしました。当初は局部麻酔で患部を摘出するはずでしたが、かなり癒着していたためになかなか摘出できず、そのうち麻酔が切れてきたため、全身麻酔に切り替えて手術をしてもらいました。

その全身麻酔の経験が、漱石が書いたこととほとんど変わらぬものだということにぼくはいささか衝撃をうけたのでした。

マスクをかぶされて意識がなくなった次の瞬間に、ぼくは種々の管に繋がれてベッドの上にあったのでした。2時間ほど経っていたのですが、僕の中ではそれは完全に連続した時間であったのです。

それは睡眠とは全然違うものです。麻酔されていた2時間の間は自分の中では完全なる「無」でした。なにもない。遠くに声が聞こえるとか、魂が離れて自分を見ているとか、そんなものもない。麻酔から覚めるときも、ああ帰ってこれそうだとか、音が聞こえてきたとかそんなこともない。自分の中では完全に連続した時間なのに、次の瞬間には様子もなにもかもが変わっていて、時間だけが過ぎていたのです。

麻酔から覚めて帰ってきたからこそ思うのですが、あの完全なる「無」こそが、いわゆる「死」ではないかということに思い至ると、なんともいえない愕然とした心持ちになるのです。それは恐怖とも違うし、安堵とも違うし、何しろ意識も何もない完全なる「無」なわけですからどうとも説明のしようがない。ただ、今生きているからこそ、当時を振り返れば、ゾッとするのです。

ぼくなぞはそれだけの表現しかできないのですが、漱石はそれを丁寧に描写して後世に残しうるのだから、さすがは文豪のなせる業に驚嘆するのでした。

「思い出すことなど」は随筆ではありますが、漱石の書いた作品では一番印象深く、とりわけ病身になってからは繰り返し繰り返し読み返しています。

ぼんやりとした時間

熊野大社奥にある御神水
昨日は雨がそぼ降る中、ひとり熊野大社にお参りをしてきました。

熊野大社は、結婚してしばらくたってから何の気なしに嫁さんとご祈祷を受けた直後に、ずっとできなかった子どもに恵まれたということがあってから、折にふれてお参りするようになりました。

すでに初詣の賑わいもなくなり、特別に設けられた御札所も片づけ半ばといったところでしたが、それでも参詣する人が次々といらしては手水で手を清め、本殿にお参りをしていました。ぼくも賽銭を投げて手を合わせてお祈りをし、御札所でお守りをいただきました。たまに神頼みをしたからといってどうなるものでもありませんが、境内のひんやりとした空気に身をさらして気持ちを落ち着けることはできます。

1月の診察で新しい病を抱えたことが判明し、これからその治療に向かうわけですが、少し今まで張り詰めすぎていたかなと反省もしました。日々の生活に汲々として、それがあたり前のことと思って、毎日過ごしてきたけれども、そうじゃなかったように思います。どこかぼんやりとした時間を過ごしてしまうことに罪悪感を感じていたけど、本当はそれが生きていくためには大切な時間だったのではないかと。

今更そんなことを考えても手遅れなんだけども、それでも昨日一日だけは一人で時間を過ごすことにしました。

神社に参ったあとは、となりにあるゆうあい八雲館で温泉に浸かりました。ここは子供たちとよく来る場所ですが、この日はひとり。普段なら、子供たちの動向をチェックするのに精一杯で、慌ただしさを感じていたことにも気づきました。のんびりと湯に浸かり、風呂あがりに牛乳を飲み、ゆったりとした時間を過ごすことができました。

実は神社に行くのに子どもを連れて行くつもりでした。けれども嫁は「ひとりで行ってきなよ」と送り出してくれました。そういう時間を過ごすように言ってくれた嫁さんに感謝したいと思います。

安すぎて怖い…

事務所で使っている電卓のキーがどうもきかなくなったので、電卓を買いました。税込、税抜計算もできる、レート換算もできるシャープ製のなかなかなものです。490円。ワンコインですか…。

そこの家電屋さんでテレビの値段を見たんです。32型の国内メーカーのテレビはもう3万円を切っているんですね。HDMIやLANなどひと通り接続端子は揃っている。外付けHDDもつけられる。それでこの値段。

すげえ、安い!ありがてぇ、ってどうも素直に思えなかったんですよね。なんだか怖いとすら思いました。

そりゃ、枯れた技術になったり、部品代などの製造コストが安くなったりということもあるでしょう。しかし、この値段の中には他にもいろいろなコストが含まれているのですよね。店舗の倉庫代や税金はもとより、店員さんが販売したり、運送会社の運賃もあったり、そのようなコストもすべて含まれてこの値段なんですよ。それを販売して利益が出て給料がもらえる人たちがいるのですよね。

薄利多売という言葉があります。安くなってもたくさん売ればいいわけです。とはいっても、限界があるでしょう。テレビなんて一家にそう何台も買うものでもないじゃないですか。買ってるところはもう買ってるわけで、せいぜい買い増しか壊れたから買い換えるとかでしょう。

ものの価格が三分の一になったら、たぶん利益も三分の一。それならそれで、ものが従来の三倍以上売れるならいい。でも、そんなに売れるものでしょうか。いや売っているところはあるかもしれません。しかしこの地域の、あるいは日本国内の需要総量が三倍にも増えるわけじゃないでしょう。

だとしたら、どこかの誰かが身を削ってそのコストを負担しているのですよね。それは企業であったり、販売店であったり、あるいはその従業員であったりするのでしょう。

そんなことを考えると、安値を素直に喜べないのです。

それが市場競争原理、敗者は去るのみ。そういう意見もあるでしょう。いやいや悲観的すぎる、景気が上向けば三倍以上に売れる日が来る。そういう意見もあるでしょう。

でもどうやらなんか胸がムカムカするような苦しい気分を感じています。物の価値が下落し、コストを削減され、手持ちのお金が減り、だからもっと安いものを求めたくなる。いよいよデフレスパイラルが現実のものとなって、ぼく自身のまわりにも襲いかかってきたような気がするのです。世界から、お前たちは今まで恵まれすぎていたんだよと言われているような気がするのです。

自分をさらすということ

楽天的な面も悲観的な面も、暴力的な面も優しい面も、善の心も悪の心も、いつも同時に持ち合わせていたりするのが人間だと思うんですけどねえ。

教室で豚を飼う映画を見て感動したけど夕食のトンカツは美味しかった、とか、GTAで人を殺しまくったのに飽きてつけたテレビニュースで無差別殺人犯の不遜な態度に憤るなんてことは、ままあるわけです。イエスが「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と言ったら誰も石が投げられなかったと聖書にもあるように、昔から人間とはそういうものだと思うんです。

WebでMHN JapanでLINEというアプリを統括しているという舛田淳氏が

フェイスブックは実名制に意味があるという一石を投じた一方、1つの顔じゃないといけないというプレッシャーを与えた。多面的な顔を出せない場になりつつあり、そこに潜在的な不満が生まれた。 スマホが拓く世界市場 和製「LINE」ヒットの裏側  :日本経済新聞

ってことを言ってる記事を見て、なるほどそうだよなあと思ったのです。

一つの顔で全てを晒していくのは実はとってもたいへんなことです。ましてfacebookは実名ですからね。そんなところに近況と称して自分の思いのたけをぶつけるのは、よほどの勇気が必要だと思います。だからぼくはfacebookやってない、怖いって思う人の気持ち当たり前だと思うんです。

ところが今やfacebook就活だそうですよ。「ソーシャルメディアを使いこなしている学生=新しいメディアへの対応力と情報発信力の高い学生」なんて評価されちゃたまったもんじゃない。facebookのアカウントなければ「ITスキルがない」、アカウントだけとって書きこまなければ「発信力がない」なんて言われちゃうんですよ。つくづくご愁傷さまとしかいいようがありません。

かと言っていい格好しいばっかりでは疲れちゃいますよね。悔しかったり悩んでいたりそういうものを自分の中で溜め込んでいたら苦しくなるばかり。本当に理解してくれる友だちに、あるいは誰でもいい、俺の叫びを聞いてくれって場所があってもいいよねえと思うのです。そういうときfacebookって実はあんまり役にたたないんじゃないかと。

じゃあお前はなんでfacebookにあれこれ私生活を晒しているんだ?ということになるのですが、なんでなんでしょうね(^_^;)。もうどうにでもなあれ、って感じなんでしょうか。

ぼくはなかなか使い分けができないんですよね。昔のエントリにも書いたけど、自分の気持ちを偽っていい格好しいをするよりも、さらけ出してしまったほうが精神的に楽だったというのがあるのですね。それによって不利益も被るかもしれないけど、そのときはそのときだと割りきりました。もう歳も歳だし、今さら着飾っても素敵な恋が待っているわけじゃないですしねw。

そんなぼくでも、やっぱりfacebookでは少し身だしなみに気をつけてしまうことがあります。何でもかんでも紐付けて私生活を晒すのも、それはそれで気を使っちゃったりするんですよね。こんなニュースもありましたね。

「キター!県民の皆さん」「新聞に抗議。不買運動しましょう」 Facebookで奈良県幹部が“暴走” – ITmedia ニュース

どうなんでしょうね…。まとまりなくなっちゃいました。

祖母が亡くなった話

嫁さんの母親の母親が亡くなりました。享年93歳。

天寿を全うしたと言われるかもしれないけれど、祖母は64歳の時に倒れ、以来30年を施設のベッドの上で過ごしました。人生の三分の一を寝たきりで過ごしたその生涯は決して恵まれたものとは言えないように思います。

祖母は宍道から松江の小さな集落に嫁いで、娘二人と息子一人をもうけました。娘二人は嫁いで家を出、詳細な事情は知らないけれども、息子は家を出て行方しれずになりました。夫が倒れその看病がたったのかまた自らも倒れ、施設に入所しました。

ぼくはその家に行ったことがあります。三方を山に囲まれ谷間に数戸が寄り添うように集まった小さな集落の奥、車も入らないような坂を上がったところにその家はあります。茅葺き屋根、便所は別棟、家畜を飼っていた小屋もあります。家の下には斜面にわずかばかりの畑があり、家の上には竹やぶがしげり、その茂みをくぐると墓があって、まるで昔話に出てくるような家でした。しかし家主を失い、継ぐものもいない家は荒れていました。何十年もふきかえていない屋根はいつ崩れるかもわからないから、奥に入ってはいけないと言われました。

嫁と結婚することになって、施設に挨拶に行ったことがあります。すでに発語は難しい状況でした。よろしくおねがいしますというと、うんうんと頷いてくれただけでした。ぼくと祖母とのかかわりはただそれだけのことです。

嫁は小さい頃にはその茅葺き屋根の家にも泊まったりして、また別の感慨があったと思います。施設にもたびたび訪ねておりました。

私たちは亡くなった報せを受けて入院していた病院に行き、義母とその姉のお手伝いをしました。葬儀社の手配、通夜の段取り、お坊さんの段取りなど慌ただしく時間が過ぎて行きました。とはいえ、葬儀はごくごく身内で済ますことになりました。近所の人、といってももう30年も交流がないわけですし、その集落ももはや年をとったお婆さんが一人住まうだけと聞きます。友人知人の類もおらず、おったとしても連絡する手段もなく、出自の宍道の親戚も二代目三代目となっているのです。

結局義母の家族と孫である私達、義母の姉の家族とその子供、宍道の親戚数組だけのひっそりとした通夜と葬式となりました。喪主は義母の姉の旦那さんがつとめました。今まで経験した中で一番、寂しく静かな葬儀でした。しかしそこには死者を送るという行為そのものがあるように思いました。血もつながってもないのに、なぜだか一番濃い葬儀だったように思います。

このように家というのはなくなっていくのだなと思いました。そして、ほんの少ししか関わり合いのなかった祖母の死なのに、書いておきたくなったのでした。