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道の端のお地蔵さん

普段自動車で走る道を歩いてみます。歩いていると、ちょっとした景色が目にとまることがあります。それは車で走っていては見落としてしまうささやかなものです。

国道の端にお地蔵さんがありました。まだいきいきとしたお花が供えられていました。車が常に行き交うこの道端にあって、いつ誰が供えているのだろう、ふとそんなことを思いました。

由来はわかりません。交通事故がここであって、その関係者が供えているのかもしれません。けれどもそれはわりと古びたお地蔵さんでありましたから、あるいは昔から境の神として祀られていたのかもしれません。地元の人がささやかな信仰をもって供えているのかもしれません。

いずれにせよ、車で走れば見逃してしまいそうな小さなお地蔵さんには、毎日のようにどなたかが花を供え手を合わせているのです。当たり前のようにその景色が見えたけれど、それがだんだんとても尊いことのように思いはじめました。

花を供えることを、誰が褒めるわけでもない、気づかれることすらないかもしれない。それでも花が供えられているのです。こういうことができるのが、人間の素晴らしさではないか、と思いました。

この世知辛い世の中にあって、そんなささやかな行いがあることを見つけることができた。これもまた歩くことのご褒美なのでしょう。

fumiton

2016年3月21日

南麓からみる茶臼山
今日は休日。長男が退屈をしてどこかへ連れて行けとうるさいので「よし茶臼山に登ってみるか」と提案すると、あっさり「行こう」というので、登ることになりました。

家の近くに茶臼山という山があります。標高はほんの171m。ごく小さな山ですが、周囲が平地のため山頂からの眺めはよく、東の中海から西の宍道湖まで一望にできます。

中高生の頃は、学校から帰ってきてから山に登って夕景をながめて帰ってきたものです。それくらいすぐに登って降りてくることができる山、という認識でした。

もっとも子供ができてからは数回しか登った記憶がありません。特に大病をしてからは登ろうとも思いませんでしたから、なん年ぶりのことです。

風は少しひんやりとするけれども、天気がよく散歩日和。途中のコンビニでおやつを買って登り始めました。

登山道を入るとすぐに、一歩歩くごとに十数センチ登るような急坂になります。ここが難所であることはわかっていましたが、予想以上のしんどさに驚きました。心拍があがり、息がきつくなってきます。その上、喘息症状も出て気管支が狭まり、一歩歩くごとに実際にヒィヒィと音を出しながら登らざるを得ません。

その隣を、息も乱れず急坂を駆け上がるように登っていく長男。そのあとをこんなはずではと思いながら、ゼイゼイ言ってついていく屈辱。しかも相手はほんの子供じゃないかと思うと、たまらなく悔しくて対抗しようとするのですが、体は動くけれども、息がついていきません。

息も絶え絶えにようやく中腹のなだらかな場所まであがりました。ここで呼吸を整えて残りをあがろうと思っていたのですが、ぜんぜん呼吸が収まりません。動悸がひどく、息を吸っても酸素が足りてないような感じです。

普段人の様子を気にも留めない長男が、心配げに「大丈夫?もう帰ろうよ」というくらいですから、よほど情けない姿だったのでしょう。ついに途中で引き返すことにしました。下りの坂も息を切らしながら降りて、長男にいたわられながら、悄然として帰路につきました。

慣れ親しんだはずの、しかもわずか百数十メートルの高さの山に登れなかったことは、かなりショックでした。いかに貧血傾向とはいえ、ここまでひどいとは思いませんでした。自分ではずいぶん元気になったし、体力もついたと思っていたのです。その自信は無残なまでに打ち砕かれました。

こんな低山も歩けないようでは、平地のジョギングだって無理なことです。せいぜい散歩してろってことか…。いや、これが限界とは思いたくありません。

今回、克服すべき目標が見つかったのだと前向きに捉えようと思います。茶臼山に登れなかったのならば、それに登れるようになれば、一定の体力が回復したと言えるでしょう。そこまで回復してようやく一人前。もう一度歩くことからはじめて、茶臼山に登ることを今年の目標にしたいと思います。

春はきた

庭に咲いたクリスマスローズ

我が家には手入れの行き届いていない庭があります。去年までアイビーに覆われた木のフェンスが敷地を囲んでいたのですが、いよいよ傷んできたので、すべて取り払ってしまいました。

今までフェンスの陰になってやや暗かった庭が、にわかに明るいものになりました。あんまり見通しの良い庭というのも、なんだか落ち着かないものです。手入れしていないのが、外からはバレバレです。

日当たりがよくなったせいか、フェンスの脇に植えていた地味な色のクリスマスローズが、今年は早くに花をつけたように思います。十数年前に植えた時は一株だったのが、いつの間にか二株になっていました。我が家と相性が良かったのか、ほったらかしでもこうして毎年花をつけてくれるのには感心します。

人間の方はまだまだ寒いと思ってはいたのですが、植物は季節の変化を必ず感じ取って、毎年同じように花をつけるものだと感心します。それらはただ時節に合わせて花を咲かせ、やがて実をつけ、時が来れば枯れていきます。そこになんの思いもなく、ただ自然の移りゆくままに命をつないでいます。

人はいけません。人生の終わりに向かって、何かしらの未練を残します。「また春がやってきたなあ」と気楽に言うけれども、あと何回この言葉がつぶやけるかと、はたと思い至り愕然とします。すでに折り返しをとうに過ぎた身には、喜びよりも侘びしさを春の訪れに感じてしまうのです。

未練がましい自分には、植物の淡々とした振る舞いが美しく、また羨ましくもあります。ぼくもまた虚心に運命を受け入れることができるようになるでしょうか。けれども、その虚心に向かうにしても、何かしら小理屈をつけて自分を納得をさせなければならないのです。

ありがとう にゃんた

うちにやってきた時のにゃんた
我が家の飼猫にゃんたは、2001年の秋、当時やっていた喫茶店の前に佇んでいました。まだ生後一月かそこらでした。ほうぼう飼ってくれる人を探しましたが、なかなか見つかりませんでした。

当時結婚して3年。ぼくの病気のせいで子供は無理だろうといわれていたので、きっと子供の代わりに我が家にきてくれたのだと思って飼うことにしました。

家でくつろぐにゃんた

トイレのしつけはなんにもせずとも当たり前のようにトイレで用を足しました。餌がほしい時は、鳴くこともなく、皿の前でいつまでもじっと待っていました。人見知りもせず、来客があれば自分から擦り寄っていく、本当に手間の掛からない猫でした。

それから後に、思いもかけず人間の子供が生まれました。きっと、にゃんたは招き猫だったんだと夫婦で話しました。親の愛情が人間の子に移っても、にゃんたはへそを曲げるようなことはあまりありませんでした。子供にちょっかいを出すこともなく、ちょっとだけ距離をおいていつもそばに寄り添っていました。

こどもとにゃんた

やがて子供が成長して、お父さんの膝の上を占領するようになったら、それまでの特等席を子供に素直に譲りました。子どもたちがちょっかいを出すようになっても、たいていされるがままにしておりました。しっぽを踏んづけた時はさすがに怒りますが、フーッというだけで反撃するようなことはありませんでした。

ぼくが3年前にがんで入院をした時は、にゃんたも歯肉炎がひどくなり抜歯手術をしました。そのときのことはこのブログにも書きました。

第2クール第9日 ニャン太 | fumiton.nyanta.jp

同じようなときに飼い主とともに手術沙汰になるとは、まるでぼくの痛みの半分を引き受けてくれているようでした。

痛々しいにゃんた

近頃は随分大人しくなり、いつも暖かい場所で寝てばかりいました。平均12歳程度といわれる猫の寿命からすると、15歳になったにゃんたはすっかりおじいさんでした。

窓辺で眠るにゃんた

2月に入ると、めっきり餌を食べる量が減り、だんだんと痩せこけてきました。動物病院に連れて行くと、先生は「なんでこんなになるまで連れて来なかった」と怒りました。腎臓がほとんど機能していないせいか、水をよく飲む割には脱水症状が進んでいました。レントゲンでは内臓に影があり、骨格に歪みもあり、いろいろなところが悪くなっていました。

点滴をして、色々なタイプの餌を渡されました。いろいろ変えてみて、とにかく食べられるかどうか試してみよとのことでした。

家に帰ってからいろいろと餌を変えてみましたが、どれもわずかしか食べませんでした。老齢となったにゃんたが、まるで自らの意志で食事を拒否しているように思えました。きっと彼は、従容として死につかんとしているのだと思いました。

最後に動物病院に連れて行くと「入院するかどうするか、治ると思うなら入院させなさい」と先生は言いました。ぼくは入院させないで家に連れて帰ることにしました。

栄養を無理やり与えるのではなく、自然に任せてこうして枯れ木のように死んでいくのは、きっといきものの本来の姿なのだろうと思いました。きちんとこのまま最後まで見守ってやろうと思いました。

その日、にゃんたはいつものように足をかかえ座ると、透き通った目でぼくを見つめました。悟ったような、ぼくの心を見透かすような、澄んだ目でした。それから目を閉じて、また眠りました。

動物病院に行った最後の日

衰えはあっという間でした。その日の夜には、立つと後ろ足が震えました。前足と後ろ足を投げ出して、ぺたっとじゅうたんの上に潰れたように寝ました。横たわるにゃんたを前に、家族とこれからのことについて話をしました。

このまま餌が食べられなければ、やがて衰弱して死んでしまうだろう。でももう治す方法がないので、病院にはかからない。これからは一日一日が大切だから、みんなで最後まで見守ってやろう。

子どもたちは泣きました。特に次男は普段からにゃんたをかわいがっていたので、大声で泣きました。長男は「まだ可能性はあるから、泣いたっていけない」といいながら目をおさえました。嫁さんはその日からにゃんたと添い寝をすることにしました。

翌日は、もう立つこともできませんでした。這って布団からでてきて、さらに平べったく寝そべりました。ただお腹が上下に動くので、まだ生きているとわかるのでした。口元に水を持って行ってやってももはや飲もうともしませんでした。

夜になると、薄目をあけて顎が落ちてきました。体を動かそうとするけれども、うまく動かないので、向きをかえてあげたり頭を支えてあげたりしました。長男は「まだ可能性はあるんでしょう」と聞きました。ぼくは「水も飲めなくなったし、もう可能性は無いと思う」と正直に言いました。その日、はじめて長男は激しく泣きました。

最後の日の朝は、もうお腹が動いていませんでした。時折、ぴくっと全身が震えて、それでまだ命がつながっているサインでした。少しずつ体も冷たくなってきていました。子どもたちに「たぶんもう最後だからなでてあげなさい」といいました。

子どもたちが学校に行った後、しばらくすると体の震えがとまりました。嫁さんが抱き上げると首ががくっと落ちました。2月25日午前7時50分、にゃんたは15年ちょっとの生涯を閉じました。

にゃんたの亡骸を抱く

どこか痛いとかいって鳴くこともありませんでした。動けなくなってから2度ほど吐きましたが、おしっこを漏らすことはありませんでした。誰にも何も迷惑をかけずに息をひきとりました。本当に立派な死に方だったと思います。

その日、家でひとりにしておくのも可哀想で、毛布にくるんで事務所のぼくの机の横に寝かせてやりました。だんだん固くなっていく体を時々さすってやりながら、ちゃんと葬式はしてやらんといかんと思いました。

夕方、子どもたちが帰ってくるのをまって、ペット専門の斎場に行きました。料金計算のために体重を測ると2.9キロでした。それは元気だった頃の半分以下の重さでした。にゃんたはきれいな箱に収めてもらい、祭壇のある部屋で最後のお別れをしました。

最後のお別れをする

たかだか飼猫が死んだだけではないかと言われるかもしれません。けれども、にゃんたとすごした15年間は、ぼくら夫婦の歩みでもありました。常に身近にいたにゃんたの死は、家族に深い悲しみをもたらしました。そして、にゃんたは自らの死をもって、家族に大切なものを教えてくれたように思います。

毎日そこにいるのが当たり前の存在だったにゃんたがもういない事実は、子どもたちにはとてもショックだったと思います。昨日と同じ日は二度と無いこと、一日一日を大切に過ごさないといけないことをにゃんたは教えてくれました。

また、家で最後を看取ることができたのは、とてもよかったと思います。現代は生命が尽きる瞬間を目の当たりにすることはなかなかありません。だんだん衰弱していくにゃんたを見るのはとても辛かったですが、生と死について考える貴重な機会を与えてくれました。子どもたちもきっと感じ取ってくれたと思います。

にゃんたは骨になって家に帰りました。すべての骨が納められた小さな骨壷を見て、ようやく気持ちが落ち着いたように思います。残されたものが気持ちの整理をするために、こうした儀式は必要なのでしょう。それが人であれ動物であれ、葬儀というのはそういうものかもしれません。

ありがとうにゃんた。一緒に暮らせてよかった。

在りし日のにゃんた

自分を正しく保つ

すっかりここに書くのもご無沙汰になってしまいました。ここには、自分の思いを折あるごとに外に向かって記しておくべきだと思っているので、本当はおろそかにしてはいけないのですが、日々の生活に流されてずるずると時間だけが過ぎてしまいました。

この秋から、従来の会社もやりながら、別会社でも役員として仕事をさせていただくことになりました。処理すべきタスクも増え、責任も負うことにはなりますが、つい先日まで不自由な体を背負っていた身としては、実にありがたいことです。

先日、血液内科の診察を受けましたが、白血病についてはあいかわらず寛解状態を維持しており、ずっと懸念だった貧血傾向も、ヘモグロビンの値がだいぶ回復して不安もなくなりました。そのかわり、血圧が少し高くなったり、中性脂肪が基準値をオーバーしたり、つまり、そこらへんにいるメタボのおじさんになってきたということのようです。

以前も書きましたが、再びいろいろな仕事ができるようになったのは、体調が回復したからではなく、周囲の人たちがぼくをもう大丈夫と認めて、任せてくれたからこそなのです。その思いを胸に、できるだけのことは精一杯やりたいものです。

ただ、表面的な忙しさに振り回されて、ただひたすらに毎日を消化していくのもよくないなと感じています。忙しい時だからこそ、自分を正しく保つことが必要です。

自分を正しく保つためには、「このように生きるべき」という自分の思う原則と、今の自分がずれていないか、定期的に振り返ってチェックをすることが必要と思っています。ぼくにとってブログにものを書くことは、その振り返りのためのひとつの手段です。

ある出来事が起こった時に、それが自分の生き方にどう反映されたのか、なぜ自分がそれを選択したのか、そういうことを(誰が読んでくれているかわかりませんが)説明できる文章としてアウトプットするのは、なかなか難しいものです。

けれども、そうやって考えて文章を書くプロセスは、自分の人生に意味付けをし、自分を正しく保つことになると考えているのです。

ですから、あんまり歯抜けになっているときには、自分を正しく保つことができていないのだなあということ。ここ数ヶ月がまさにそうだったのですね。自分のためにも、月に一度か二度は、ここになにかしら書くことができるようになりたいものです。

先日見た夢が忘れられない

いつもなら血液検査をしてからのはずが、いきなり診察室に案内をされたのはおかしいと思ったのです。
前の患者が開けたドア越しに主治医と目が合うと、すぐに名前を呼ばれて診察室に招かれました。
「まだ血液検査が済んでいないんですが…」
「いいんです。前回の精検の結果がでましてね」
主治医はそういうとモニターに目を向けました。今までずっと陰性だった検査結果の欄にとてつもない数字があがっていました。
「再発ですか」
「そう考えられますね」
「えらく急ですね」
「だから危ない」
「どうですか」
「これからすぐに治療に入りますが、最初の一ヶ月半がんばってみましょう」
「それでダメなら…」
「年内はがんばってみますか」
どっと胃から変なものがこみ上げてくる気持ち悪さとうらはらに、困ったなあと苦笑いをしている自分の姿を、客観的に見ているもう一人の自分がいました。
今度ばかりはダメだと直感でわかりました。いつかこういうときがくるとは想像をしていたけれども、イメージしていたのとは違うかたちで人生の終わりが目前に迫ってきたことは、自分を混乱させました。
何より時間がないというのがショックでした。仕事はどうしよう、子供はどうしよう…まだ死にたくはないのだが!

頭がぐるぐると回ったところで、目が覚めました。

それからしばらく眠れませんでした。冷静に考えれば、医者が「年内がヤマです」みたいなことを言うはずもないのです。けれども、荒唐無稽と笑い飛ばすこともできないほど迫真な夢でもありました。目覚めてから、しばらく今の生き方を考えざるを得ませんでした。

ひとつに、それほど死ぬ覚悟などできていなかったということがわかりました。

病を抱えているのですから、それなりに覚悟はしているつもりでおりました。けれども、それは覚悟ではなく、こう死にたい、こう死ぬべきだという願望であったのです。そのイメージが固まってしまっていたので、別の事態が起こって激しく動揺してしまったのです。本来の覚悟からはよほど甘い考えであったことを思い知らされました。

もうひとつ、時間がないという思いにとらわれたことが印象的でした。

それは、それだけ今生きていることに執着があるという現れでもあり、それ自体はよいことだと思いました。一方で、毎日やるべき事を先送りしてしまっているということの現れでもあろうと思いました。「今日生きて、明日目覚めぬとも悔いなし」が理想であり、確かにいっときはそんなことも思っていましたが、いつの間にかまた怠惰な毎日を過ごしていた、ということをその夢が思い知らせてくれたのです。

ぼくは実に意志薄弱であります。大病を何度も繰り返し、そのたびに自分の生き方を模索してなお、理想からほど遠い堕落した日々を過ごしているのです。誰もが人生を悟る事ができるわけではないのだとはわかっていますが、もう少しまじめに生きなければ、せっかくの人生がもったいないと思いました。

インターネットがないと仕事もできない時代かぁ

ONUユニット
8月から新しい設備で仕事をすることになり、細かいトラブルはありながらもなんとか日々回るようになって安心していたのですが、先日、肝を冷やすトラブルに遭遇しました。

突然インターネットに接続できなくなったのです。ChromebookでYoutubeを見ていた子どもたちも、見れなくなったと苦情を言ってきます。ルーターの設定をいじったわけでもなし、プロバイダの障害かなと軽く考えていました。

ところが電話がかからないトラブルも発生していることがわかりました。これはやばいです。光電話が繋がらないとなると、インターネットの向こう側のトラブルではなく、回線自体がダメになっている可能性があります。

新しい業務システムは、クレジットカード決済なども可能にするためにインターネット回線を利用したVPN(仮想ネットワーク)でセンターと通信を行っています。回線がつながらないと通信ができないために、クレジットカードなどのオンライン決済ができなくなってしまいます。

さあっと冷や汗が流れました。固定電話がつながらないので、携帯電話でNTTに状況を伝えると、先方から光回線が通じているかどうか経路探索をしてくれましたが、こちらの光終端装置(ONU)まで到達できないということでした。そうなると、ONUの故障か、ケーブルの断線ということになり、まったくのお手上げです。

早速修理依頼をしたのですが、お盆期間ということもあり、また前日に雷が各所で発生して忙しいらしく、今日はいっぱいだというのを、こっちも仕事が止まるのでなんとか頼むとゴリ押しして、今日必ず対応するとの約束をとりました。

その間、お客様にはお詫びしながら対応し、6時間後に工事担当の方がきて調査したところ、ONUが不良とのことで、機器交換してようやく復旧したのでした。

今の時代は、ネットなしでは仕事も何もできなくなるんだということをあらためて思い知らされました。昔は、インターネットが見られなくなったからといって、仕事が別にどうということはありませんでした。しかし、今はそうではありません。電話も使えなければ、ネットワーク化された機械が止まって業務も停止してしまうのです。

インターネットはそれくらい重要なインフラとなっているのですが、実際には細い細い一本のケーブルと、プラスチック筐体に覆われた機械が24時間通電してようやく支えているのです。今回はたまたまNTTを側の機器故障でしたが、社内の機器がトラブルの元になって業務が止まる可能性もあるわけです。

ぼくなんざ、なまじ中途半端な知識があるので、安物のハブやルーターを使ってひょいひょいと社内LANを構築してしまっているわけですが、もう少しきちんと設計しなおして、何年かに一回は機械やケーブルを取り替えるくらいしないといけないなと思いました。今回は、本当に焦りましたよ。