カテゴリー別アーカイブ: 子育てについてのお話し

子どもには怒りよりも悲しみを表現した方がよい

「今日は午後は予定があるから早めに宿題をしようね」と嫁さんが下の子に声をかけます。下の子は「わかった……」といって、3DSのゲームをしています。

……15分後。「そろそろゲームやめて宿題しようや……」「うん……」

……さらに15分後。嫁さんの怒りが爆発しました。「早くしろっていってるでしょうが!」ゲーム機をとりあげ、その後それを隠してしまいました。下の子は「オレばっかりいつも叱られる」と半泣きになって宿題に向かうものですから、字を書き殴り、内容が頭に入りもしません。

こんなことが度々起こるものですから、夏休みは大変です……。

嫁さんは「本当に腹が立つわ。早くに声がけもしているのに、もう関わりたくもないわ」と感情的になっています。その気持ちもわからんでもないけど……と理解を示しながら、ぼくは彼女に「腹を立てるのはよくないよ」といいました。

例えばこの場合、下の子が宿題にしっかり取り組んでくれることが目的なのです。怒りをあらわにしたことで、下の子は宿題をしたかもしれませんが、学習が何も身についていないのですから、結局目的は達せられませんでした。

下の子はますます勉強が嫌いになり「オレは虐げられている」という嫌な気持ちを持ってその日を過ごしてしまいます。一方怒っている母親も自分の感情をかき乱されてしまいました。まして目的を達せられなかったので、嫌な気持ちをその後も引きずってしまいます。

怒った方も、怒りをぶつけられた方も、皆損をしてしまっているのです。そしてお互いに反発し合い、気持ちの澱がたまっていってしまうのです。

「じゃあどうすればいいのよ、何があってもニコニコしておけばいいわけ?」とキレながら反論されると困るのですが……。ぼくは「腹を立てる代わりに、悲しみを表現する方がいいと思う」と答えました。

怒りで従わせてもお互い損なことは間違いありません。といって、自分のモヤモヤした気持ちは相手に伝えたい。そんなときに自分がどれだけ悲嘆に暮れているかを相手に伝えるのも一つの方法だと思うのです。

「早くから声をかけていたつもりだけど、それを聞いてくれないのは、とても悲しい」と悲しげな表情をしたらどうだったでしょうか。相手の感情がわからない上の子ならともかく、下の子なら「悪いことしたな」と思って、宿題に取り組んだのではないでしょうか。

たとえ自分に非があることがわかっていても、頭ごなしに「おまえが悪い!」と言われれば、反発したくなるものです。けれども相手に泣かれてしまっては、反発することもできません。母親にしても、感情をおし殺して我慢をするのではなくて、子どもに自分の気持ちを伝えられるので少しはモヤモヤも減るのではないかと思うのです。

「でも何度言っても治らないじゃない」と言われてまたまた困るわけですが……。

確かに同じ間違いを何度も繰り返されると、わかってくれないことに腹も立ってくるではないですか。が、過ちを指摘されてすぐに改められるような人は、大人でもそんなにいるわけではありません。我が身を省みても完璧でないことは明らかで、それを子どもに強いることはとても難しいことだと理解しなければならないのでしょう。

まして他人の子ではなく我が子のことですから、繰り返し伝え、そのたびに裏切られても、いつかわかってくれると信じて繰り返し伝えていくしかないのだろうと思います。

まこと夏休みは大変です。

下の子は識字障害なのか

うちの子は上が自閉症スペクトラム障害と診断され、中学校の普通学級に通いながら精神的治療も行っていますが、下の子も最近問題行動が多く、小学校とどう指導していくか話し合いを持っています。

下の子の場合は、以前から学力が低く、それが人間関係にも悪影響を及ぼし始め、孤立を感じたり、他人に対して卑屈になってしまっているのが問題です。

知能テストでは平均108と低くないどころか、むしろ高い部類なのです。ただ彼は字の読み書きが非常に苦手で、学力テストでは低い点数しか得られません。

これは識字障害(ディスクレシア)ではないかと、数年前から通級指導などを通して訴えてきたのですが、診断をするでもなく問題を先送りしてしまいました。上の子と違い情緒的に問題がなく、単なる学力の問題として捉えてしまったのです。

幸い今年から赴任された特別支援教室の先生が、下の子について関心を持ってくださいました。教室から取り出して、iPadを使って学習をさせる方法を試みられたところ、大変熱心に取り組んでいたそうです。そこで、iPadを使った学習について提案を受けました。

ただ、小学校ではなかなかタブレット端末を用意することができないため、iPadは自前で用意して欲しいし、iPadを使うためのルール作りはこれからはじめないといけないとのことで、まだしばらく時間がかかりそうです。

一方で識字障害の程度についても、夏休み前をめどに、専門の先生と判断をしてくれることになりました。

もっとも、現状の教育環境では、やはり読み書きの能力によって、学力が判定される実情はあります。PCやタブレット端末といった電子機器を利用した学習はあくまで補助的な位置づけです。どんなにつらくても平行して、手を使った読み書きの努力はしなければならないでしょう。

惜しむらくはもっと早くに対処していれば違っていたかもしれないということです。今から半年程度での学力アップは不可能でしょう。中学校では、小学校ほど手厚い支援は受けられません。

それでも、彼が少しでも学習にむかう楽しさや、できたという自信を持ってくれたら、気持ちの上でも人生に前向きになれるかもしれません。親としては、成績が悪くても生き生きとしてくれたら、それだけでいいのです。

長男の小学校卒業が近づく

長男の小学校卒業が近づいてきました。

幾度も書いてきましたが、長男は発達障害の診断を受け、小児精神科に通院しています。今日も病院に行き、現在の状況を報告してきました。

長男は「空気を読む」ことが苦手である特徴により、さまざまなトラブルを引き起こしてきました。ただ現在は、些細な事で感情を爆発させることもたまにはありますが、その頻度は減り、概ね安定した日々を過ごしています。

精神安定薬としてエビリファイとコンサータを服用していますが、その効果は確実にあろうと思われます。

それ以上に今年は小学校の担任の先生に大変お世話になりました。

長男が安定しているのは、学級内でも特別な役割を与えてくれたり、適正にあったポジションにつけてくれるなど、本人の承認欲求を満たし、自信をつけさせる指導をしていただいたおかげと思います。

ただ、これから中学校に行けば環境も激変します。一時は特別支援学級も考えましたが、本人の希望や、先生方のアドバイスもあり、やはり普通学級に通わせることにしました。そうなればなおさら、小学校の時のような手厚いケアはおそらく望むことはできないでしょう。

それでも親としては、小学校から中学校へスムーズに移行することを目標としてきました。

中学校の先生方とも複数回にわたって面談をし、本人の特性や、指導に対する要望を聞いてもらう機会を得ました。中学校側も真剣に話を聞いていただき、入学前に新担任との顔合わせをしてもらうことにもなりました。

昨年秋からは島根県教育センターの教育相談に通わせています。長男には、誰でも良いので信頼できる人を作り、自分の気持ちを出してほしいと思っています。今は、まだ親がその役割が果たせますが、これから成長していけば親への信頼はなくなっていくでしょう。また学校で挫折し、孤独になることもあるかもしれません。そんなときに、この教育センターが砦となってくれればよいがと思っています。

できることは限られていますが、親として打つべき手は打ちました。本人といえば、想像力が苦手なので、卒業についてはあまり感慨もなく、あいかわらずわがまま放題な日々を過ごしています。けれどもこれから彼は幾つもの壁に直面することでしょう。本人がその壁を乗り越えることを期待し、見守るしかありません。

他人を信頼する人になってほしい

外との接触を断とうとする長男

長男が暴れているので来てくださいと小学校から呼び出しがありました。そういうときは、父親であるぼくを呼んでもらうようにしてあるのです。到着すると、会議室の床の上に長男が顔を覆って伏せており、先生方がやり場ない様子で、長男の周りを囲んでおられました。いつものパターンです。

その時、彼は何も聞こうともしないし、何も言おうともしません。顔を覆う手を払おうとすると、大きくかぶりを振って、ひたすらに顔を覆うのです。彼は今、ただひたすらに外の世界との接触を断とうとしています。

しかしこのままにしておくわけにはなりません。次のステップに進むためには、なんとしても外とつながってもらわねばなりません。

「なんでお前はこうなんだ!」と言いたい気持ちを呑み込んで、時間をかけて、まず床に臥せっているのを座らせて、深呼吸をさせて、それから怒りの理由を聞き出すのです。

外との接触を断ち、心を閉ざす長男にぼくはいつも言うのです。
「いいか、君は今とてもつらいはずだ。怒りの気持ち、失敗して恥ずかしい気持ち、それらを今溜め込んでいる。それは余計つらいぞ。誰もオレのことをわかってくれないと思うだろう。でも君が自分の心を語らなければ、誰もどうしていいかわからない。だからなんでもいいから心に浮かぶことを話せ。誰もそれでバカになんかしない」

それでも語ることができるようになるには30分位かかるでしょうか。ようやくぽつりぽつりと心の断片を語りました。今回、音楽会の練習で先生に注意されたことがきっかけではありましたが、深いところでは、なかなか練習できず、うまくできない自分へのいらだちや悔しさがあったということがわかってきました。

その思いは受け止めておいて、まずは、暴れたことで先生やまわりの友達に迷惑をかけたことを反省しなければなりません。今日はそれだけでよいからと、暴れたことについての謝罪をさせて連れて帰りました。

心の澱を溜め込むことが爆発につながる

長男が暴れるのには必ず理由があるのです。何かに腹が立ったり、不満だったり、それは外から見れば稚拙な理由であることが大半ですが、彼にとって抑えがたい感情が行動となって物にあたったり、騒いだりするのです。

そこに至る前に、彼自身が気づいて自分の気持ちを観察できるようになれば、暴れる前に処理をすることができるでしょう。しかし、それは大人であっても難しいことです。

ぼくはそんなときに、彼の感情の澱を口に出してほしいと思うのです。自分が今何に苛ついているのか、どういう気持になっているのか、それを聞いてくれる人を見つけてほしいのです。その相手が必ずしも今の問題を解決してくれるわけではないかもしれない。けれども、それを吐き出すことできっと楽になることがあるはずなのです。

彼はそれをしない。すべての感情を溜め込もうとします。しかし心のバッファが小さいがゆえに、すぐにそれは暴発してしまいます。

その時まわりの友達が彼を嗤い、大人たちが責め立てると、彼はますます外との接触を断ち、孤独の海に沈んでいきます。ぼくは仕方ないので、後付でもどんな思いをしていたか聞き出すことで、彼の心を開かせようと試みるしかありません。

人を信頼できないのはなぜか

常日頃ぼくは「誰でもいいから信頼できる友達や、大人を作りなさい。何かもやもやしたらその人に相談しなさい」と長男に言います。

彼は「そんな人はいない。話しても無駄」といいます。

ぼくはそれがとても残念でなりません。彼は友達にも本当に恵まれているようにも思います。これだけ学校で問題を起こせば、仲間に入れてくれなくなりそうなものですが、サッカー部をやめた今でも「またサッカー部に帰ってこいよ」と言ってくれる友達がいます。担任の先生にしても、毎週仕事が終わると家庭訪問をして様子を報告してくださるし、ここしばらく日曜日に学校で音楽会の練習さえつきあってくれました。

誰もが彼に手を差し伸べているのに、それを拒否しているのが実にもったいないし、残念に思います。

人が人を信頼するときに、やはり自分の心を開いてさらけ出さなければなりません。それが彼には怖いのでしょう。心を開くことで、馬鹿にされるのかもしれない、裏切られるかもしれない、結局話しを聞いてもらえないかもしれない。

ぼくは、その恐怖を取り除いてくれる人を見つけてほしいのです。

教育センターに通う

中学校に向けての進路や、ソーシャルスキルトレーニングについて調べる中で、島根県教育センターの教育相談の存在を知りました。

教育相談のご案内(PDF)

ここではソーシャルスキルトレーニング自体は行っていませんが、学校生活や家庭生活で様々な悩みをかかえた子どもたちが来所して、担当の相談員に話を聞いてもらったり、遊んだりして過ごすことができるそうです。

最初に親だけで相談に行って、説明を受けたときに「ここでは子どもを評価しないし、否定もしません、また相談を受けた内容は親御さんであっても秘密にします」と言われました。相談員との人間関係を構築して悩みを受け入れるというのは、ぼくが言っている信頼できる大人を見つけることにつながるかもしれないと思いました。うまく相談員の先生との関係が築ければ、彼の心の負担が減るかもしれません。

次の週に、長男を連れて一回目の相談に行きました。男性の先生が担当となり、50分間遊んでもらったようです。親の方は相談室で、もうひとりの担当の先生に子どもの様子などについて話を聞いてもらいました。本人はとても楽しかったようで、また来たいということになったので、二週間に一度程度の頻度で通うことにしました。また親にとっても、日頃の子育ての辛さを聞いてもらえることで少し楽にもなりました。

その間、学校の授業を抜け出さねばならないのですが、今の彼には学校の授業よりも、人間関係の構築のほうが大切なのかなと思います。

それでも正解はない

親はなんとか彼が社会性を身につけて、自分の力で生きてほしいと願っています。彼がそうできるように親の立場から勉強し、いろいろな人と会って、どうすればいいか考えてきました。けれども、こうすればあなたのお子さんは自立できる、などという答えはだれも教えてくれません。

ぼくには長男の心の痛み、苦しさが手に取るようにわかるような気がします。それをどのように癒すか、自分なりには答えを見つけられます。でも、それはぼくの視点での答えであって、彼の答えではありません。正しく彼を導いてやることができない、それがとてももどかしいのです。

親にできることは、ただ愚直に全力で彼と向き合うことしかできないのかなと思っています。全力で向き合ってくれたことを、彼がわかってくれる日がくれば、それが自分自身への救いになるのでしょう。

長男はサッカー部を退部した

先日、長男がサッカー部の練習を途中で放棄してひとりで歩いて帰ってきました。試合形式の練習をしていたときに、ファウルを取られなかったという、傍から見れば些細な事だと思うのですが、それが本人には耐え難い屈辱だったようです。

この例にかぎらず、最近少しずつサッカー部の中でギクシャクしていたことは確かなようです。本人は、やる気のある時とない時の差が極端で、パスを出されて追いつけないとパスを出した人に不満をぶつけたり、自分の放ったシュートが外れてこぼれ球をチームメイトが決めても全然嬉しそうな顔をしないなどということがよくあります。要するにサッカーがチームプレーであることがなかなか理解できていないのです。

そんな長男に、チームメイトや保護者さんたちは本当にフォローをしてくれて、気を使ったプレーをしてくれるわけです。それは本当にありがたいことです。けれども、チーム全体がうちの長男の顔色を伺いながらプレーをするようになってしまいました。

コーチはそれを見逃しませんでした。サッカー部としてこれから良い成績をあげていくためには、長男に対し、チームプレーを考えて行動をしてもらわないといけないということを指導されました。それが本人には非常に厳しく映っていたのです。

入部当初から懸念をしていた、個人と全体のバランスをとりにくい発達障害特有の問題が、いよいよ顕わになってきたのでした。

長男はサッカー部をやめると言いました。

ぼくは最初腹がたちました。嫌なことがあるとすぐに放り出したりする、その安易な生き方が許せない気がしました。まわりの友達が、大人たちが、お前のためにどれほど気を使い、どれほど手を差し伸べてくれていることか。それを感謝するどころか、その手を振り払うようなことをしているくせに、自分だけが不幸みたいな顔をするとは何様のつもりか、と。

すると長男は言ったものです。「他の人がなんで俺に気を使ったり、助けようとするのかわからない。俺はそんなことを思ったことがない。嫌な思いをするくらいなら助けないほうがいいんじゃないか」

それが子どもの強がりとかではなく、真顔で語られたことに、ぼくは愕然としました。

他人に助けられたら、また同じように人を助ける。むしろ他者が幸せになることが、自分自身の幸せであると確信し、自分自身そう生きてきたつもりです。それと全く反対の考えを持っている人がいて、それが他ならぬ我が子であるとは、なんという皮肉でしょうか。ぼくは、今までの自分の人生をすべて否定されたような衝撃を受けました。

ぼくは腹をたてるのをやめ、一人の人間としてぼく自身がどういう人間でありたいと思っているか、そのような考えにいたった理由は何か、静かに長男に話しをしました。長男に理解できたかどうかはわかりませんが、最後まで黙って聞いていてくれたのは救いでした。

「父ちゃんとしては、お前に変わってもらってまた部活を続けて欲しいと思っているが、それを無理強いはしない。じっくり考えて自分で結論を出しなさい」と言いました。

次の日、サッカー部の練習には参加せず、コーチと最後まで話していたようです。そのうえで、やはり長男はサッカー部をやめることにしたようです。

彼なりに真剣に考えて出した結論なのでしょう。ぼくはそれを受け入れることにしました。ただし、これまで支えてくれた友達やコーチに感謝はしなければならないと言うと、頷いていました。

長男は「サッカー部ではダメだったけど、俺は学校で変われるように頑張るけん」とポツリと言いました。それがぼくには嬉しかった。おそらく彼の心は以前のままです。けれども、違う考えもあるのだということを理解しようとしているのは間違いない。そこまでで今は十分ではなかろうかと思うのです。

サッカー部の皆さんには、年度の途中で、しかも最終学年で抜けることで、ご迷惑をおかけするのがとても忍びないですが、難しい気質の息子を優しく受け入れてくださったことには感謝の念しかありません。

fumiton

2016年3月21日

南麓からみる茶臼山
今日は休日。長男が退屈をしてどこかへ連れて行けとうるさいので「よし茶臼山に登ってみるか」と提案すると、あっさり「行こう」というので、登ることになりました。

家の近くに茶臼山という山があります。標高はほんの171m。ごく小さな山ですが、周囲が平地のため山頂からの眺めはよく、東の中海から西の宍道湖まで一望にできます。

中高生の頃は、学校から帰ってきてから山に登って夕景をながめて帰ってきたものです。それくらいすぐに登って降りてくることができる山、という認識でした。

もっとも子供ができてからは数回しか登った記憶がありません。特に大病をしてからは登ろうとも思いませんでしたから、なん年ぶりのことです。

風は少しひんやりとするけれども、天気がよく散歩日和。途中のコンビニでおやつを買って登り始めました。

登山道を入るとすぐに、一歩歩くごとに十数センチ登るような急坂になります。ここが難所であることはわかっていましたが、予想以上のしんどさに驚きました。心拍があがり、息がきつくなってきます。その上、喘息症状も出て気管支が狭まり、一歩歩くごとに実際にヒィヒィと音を出しながら登らざるを得ません。

その隣を、息も乱れず急坂を駆け上がるように登っていく長男。そのあとをこんなはずではと思いながら、ゼイゼイ言ってついていく屈辱。しかも相手はほんの子供じゃないかと思うと、たまらなく悔しくて対抗しようとするのですが、体は動くけれども、息がついていきません。

息も絶え絶えにようやく中腹のなだらかな場所まであがりました。ここで呼吸を整えて残りをあがろうと思っていたのですが、ぜんぜん呼吸が収まりません。動悸がひどく、息を吸っても酸素が足りてないような感じです。

普段人の様子を気にも留めない長男が、心配げに「大丈夫?もう帰ろうよ」というくらいですから、よほど情けない姿だったのでしょう。ついに途中で引き返すことにしました。下りの坂も息を切らしながら降りて、長男にいたわられながら、悄然として帰路につきました。

慣れ親しんだはずの、しかもわずか百数十メートルの高さの山に登れなかったことは、かなりショックでした。いかに貧血傾向とはいえ、ここまでひどいとは思いませんでした。自分ではずいぶん元気になったし、体力もついたと思っていたのです。その自信は無残なまでに打ち砕かれました。

こんな低山も歩けないようでは、平地のジョギングだって無理なことです。せいぜい散歩してろってことか…。いや、これが限界とは思いたくありません。

今回、克服すべき目標が見つかったのだと前向きに捉えようと思います。茶臼山に登れなかったのならば、それに登れるようになれば、一定の体力が回復したと言えるでしょう。そこまで回復してようやく一人前。もう一度歩くことからはじめて、茶臼山に登ることを今年の目標にしたいと思います。

共感する力を伸ばしてあげたい

うちは商売をしているので、家のことも顧みず、年末ぎりぎりまで仕事をしています。子どもたちは、どこに連れて行ってもらえるわけもなく、正月気分もあまりないまま、冬休みを過ごさなくてはなりません。

そんな中、お客さんに来年のカレンダーを渡してくれたり、レジで釣銭を渡してくれたり、今年は長男がずいぶん仕事を手伝ってくれています。それで、夕方くらいになると「で、いくらくれるの?」と。「何を言っているか」と一喝すると「手伝って損した。手伝わなければよかった」と、機嫌を損ねる。まるで落語の「真田小僧」ですが…。

けれども、昨夜のことです。もう寝るかと布団に入ったときに、「父ちゃんには感謝しないといけない」と長男が言ったものです。どうしてかと問うと「オレはもう夜になると疲れてイライラするけど、父ちゃんはあれだけ働いて疲れているのに、オレをあちこちよく連れて行ってくれたもの」。

うれしいと言うよりも驚きが先でした。

長男は広汎性発達障害であり、常に自分中心でしか物事を考えられず、相手の立場になって物事を考える能力が欠落しているものだと思っていたからです。それは、脳機能の障害によるもので、そういう発達障害の人は、相手がこういう態度ならこう対処すべき、というパターン学習によってしか、社会性を身につけられないと教えられ、またそういうものだろうと思っていたからです。

しかし、昨夜の長男は、誰に強制もされず、自らの考えとして、父親の状況を把握し、父親の立場に立って自分を客観視することができました。それは、人間としてなんの問題もないばかりか、きわめて成熟した反応ですらありました。

ぼくは今までの長男対する接し方について、考えをあらためないといけないと思いました。

自分自身が、彼に病気というレッテルを貼って、どこかそこに安心をしていたのです。何か問題があっても「息子は病気なのだから」という言い訳をしていたのです。息子はこういう人間なのだから、作業療法的な指導をしていかなくてはいけないという型にはめようとしていたのです。

しかし、彼の中には、他人を慮る心、他人に共感する心が、しっかりとあることが確認できました。それは他の人よりも小さなものかもしれません。しかし、他人に共感する心がある限りは、それを自らの力で大きくできる可能性があります。

彼の可能性を信じて、手伝ってやることがぼくの役割なのではないか。それなのに、今までの自分は、病気という枠にはめて、彼の成長の可能性を摘み取ってしまうところだったのではないか。

長男は昨夜のことは何もなかったかのように、今朝はまた以前のわがままが戻ってきて「年末にどこにも連れて行ってもらえない」と悪態をついています。弟をこき使い、自分のできないことを人のせいにしています。

しかしこれからは、作業療法的なアプローチは控えて、こちらが共感をするやり方で接していこうと思います。それは、困難な方法ですが、彼の心に共感する力がある以上は、その力を伸ばしてやらねばならないと思うのです。