手術直後は管がつきすぎてまったく身動きがとれないような状態でした。口には酸素マスクが被せられ、鼻からは細くて透明なチューブが胃まで差し込まれています。左手甲には麻酔で使った点滴が、いろいろな薬剤を注入するためにそのままついています。新たに右の首の頸静脈にも点滴がついて、こちらにはハイカロリーの栄養剤が繋がれています。背中には痛みを止めるための麻酔用点滴が未だに刺さっていました。新膀胱が機能するまで腎臓から直接排尿するためのカテーテルが左右双方につき、お腹の中の炎症や尿漏れをチェックするための腹水ドレンが、これも2本つき、そして新膀胱から尿道を通したカテーテルと、これだけのものが身体につけられていました。
手術がなんとか成功した今、これらの管が順調に外されていくのが次の目標になります。そのためには、残された自分の身体がどれだけ回復力を持っているかが鍵になるのです。それぞれの細胞は再び再生をしようとしていました。そして外からはハイカロリーの栄養が体内に入れられました。しかし、細胞に栄養を届けるための血液が圧倒的に足りていない状態でした。
ぼくは普段から貧血状態ではあったのですが、手術後はさらにひどくなり、血圧は上が90前後、下が50前後という経験もしたことがないような低さでした。血中ヘモグロビン量も普通の人の半分程度しかなく、立ち上がるのがやっとの状態でした。
手術から3日後の4月7日、主治医からは輸血を提案されました。自分の血液量が回復するのを待つよりも、外から血液を入れて早く臓器を回復させるのが必要だと言われました。ぼくは勧めに従い、輸血を受けることにしました。輸血はすでに手術中にも行われたそうですが、実際に意識のある状態で受けるのは初めてです。輸血は手の甲の点滴から行われ、真っ赤な色をした血液バッグから、粘度の高い液体が一滴ずつ身体の中に入ってきました。
ベッドの下から血液バッグを見るとそれが3月28日に献血されたものだということがわかりました。
ぼくも白血病にかかる前は献血をよくしていたのでわかるのですが、誰かを助けようという崇高な使命感をもって献血をされる方は稀だと思います。血液センターでのジュース飲み放題につられて、あるいは献血後のグッズにつられて、巡回車が会社に来たので仕方なくとか、献血の理由なんてそんなものだと思います。この血液もおそらく気前のいい誰かが軽い気持ちで献血をしてくれたのだと思いました。
今回ぼくはその血液をいただく立場になりました。他人の血が自分の中に入ってくることに対する生理的な嫌悪感がある一方、その他人の血に依存せざるを得ない身体状態であることは間違いありません。最初、胸中は複雑でした。しかし、いざ血液が落ち始めるとその一滴一滴によって、自分自身が生かされているのだと思うようになりました。どこの何方かわからないけれども、その人の善意の血液が、弱々しくなった自分の生命を支えてくれているのだと思うと、感謝の気持ちでいっぱいになりました。
「いつもぎりぎりのところで、誰かが助けてくれるんです」看護師さんに、そうつぶやくと年甲斐もなく嗚咽しました。それくらい気持ちが弱っていたのでしょう。でも、それは紛れもない実感でした。
その輸血が転換点となり、ぼくの血液状態は改善しました。血圧も通常値に戻りましたし、ヘモグロビン量も以前と同じ程度にまで回復したのでした。そしてそれから数日で、歩けるようになったのです。
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