夏目漱石「思い出すことなど」

夏目漱石は1910年に療養先の修善寺で大吐血をして、危篤となりました。しかし、その時漱石は自分が30分の間人事不省に陥ったことを全く理解していませんでした。その時のことは「思い出すことなど」に詳しく書いてあります。

強いて寝返りを右に打とうとした余と、枕元の金盥に鮮血を認めた余とは、一分の隙もなく連続しているとのみ信じていた。その間には一本の髪毛を挟む余地のないまでに、自覚が働いて来たとのみ心得ていた。ほど経て妻から、そうじゃありません、あの時三十分ばかりは死んでいらしったのですと聞いた折は全く驚いた。

この項を最初に読んだ若い時には、そんなものかなという思いしかしませんでしたが、今では漱石の書いたことがすっかりよくわかるような気がします。

今から2年前虫垂炎で入院をしました。当初は局部麻酔で患部を摘出するはずでしたが、かなり癒着していたためになかなか摘出できず、そのうち麻酔が切れてきたため、全身麻酔に切り替えて手術をしてもらいました。

その全身麻酔の経験が、漱石が書いたこととほとんど変わらぬものだということにぼくはいささか衝撃をうけたのでした。

マスクをかぶされて意識がなくなった次の瞬間に、ぼくは種々の管に繋がれてベッドの上にあったのでした。2時間ほど経っていたのですが、僕の中ではそれは完全に連続した時間であったのです。

それは睡眠とは全然違うものです。麻酔されていた2時間の間は自分の中では完全なる「無」でした。なにもない。遠くに声が聞こえるとか、魂が離れて自分を見ているとか、そんなものもない。麻酔から覚めるときも、ああ帰ってこれそうだとか、音が聞こえてきたとかそんなこともない。自分の中では完全に連続した時間なのに、次の瞬間には様子もなにもかもが変わっていて、時間だけが過ぎていたのです。

麻酔から覚めて帰ってきたからこそ思うのですが、あの完全なる「無」こそが、いわゆる「死」ではないかということに思い至ると、なんともいえない愕然とした心持ちになるのです。それは恐怖とも違うし、安堵とも違うし、何しろ意識も何もない完全なる「無」なわけですからどうとも説明のしようがない。ただ、今生きているからこそ、当時を振り返れば、ゾッとするのです。

ぼくなぞはそれだけの表現しかできないのですが、漱石はそれを丁寧に描写して後世に残しうるのだから、さすがは文豪のなせる業に驚嘆するのでした。

「思い出すことなど」は随筆ではありますが、漱石の書いた作品では一番印象深く、とりわけ病身になってからは繰り返し繰り返し読み返しています。

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