楽天的な面も悲観的な面も、暴力的な面も優しい面も、善の心も悪の心も、いつも同時に持ち合わせていたりするのが人間だと思うんですけどねえ。
教室で豚を飼う映画を見て感動したけど夕食のトンカツは美味しかった、とか、GTAで人を殺しまくったのに飽きてつけたテレビニュースで無差別殺人犯の不遜な態度に憤るなんてことは、ままあるわけです。イエスが「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と言ったら誰も石が投げられなかったと聖書にもあるように、昔から人間とはそういうものだと思うんです。
WebでMHN JapanでLINEというアプリを統括しているという舛田淳氏が
フェイスブックは実名制に意味があるという一石を投じた一方、1つの顔じゃないといけないというプレッシャーを与えた。多面的な顔を出せない場になりつつあり、そこに潜在的な不満が生まれた。 スマホが拓く世界市場 和製「LINE」ヒットの裏側 :日本経済新聞
ってことを言ってる記事を見て、なるほどそうだよなあと思ったのです。
一つの顔で全てを晒していくのは実はとってもたいへんなことです。ましてfacebookは実名ですからね。そんなところに近況と称して自分の思いのたけをぶつけるのは、よほどの勇気が必要だと思います。だからぼくはfacebookやってない、怖いって思う人の気持ち当たり前だと思うんです。
ところが今やfacebook就活だそうですよ。「ソーシャルメディアを使いこなしている学生=新しいメディアへの対応力と情報発信力の高い学生」なんて評価されちゃたまったもんじゃない。facebookのアカウントなければ「ITスキルがない」、アカウントだけとって書きこまなければ「発信力がない」なんて言われちゃうんですよ。つくづくご愁傷さまとしかいいようがありません。
かと言っていい格好しいばっかりでは疲れちゃいますよね。悔しかったり悩んでいたりそういうものを自分の中で溜め込んでいたら苦しくなるばかり。本当に理解してくれる友だちに、あるいは誰でもいい、俺の叫びを聞いてくれって場所があってもいいよねえと思うのです。そういうときfacebookって実はあんまり役にたたないんじゃないかと。
じゃあお前はなんでfacebookにあれこれ私生活を晒しているんだ?ということになるのですが、なんでなんでしょうね(^_^;)。もうどうにでもなあれ、って感じなんでしょうか。
ぼくはなかなか使い分けができないんですよね。昔のエントリにも書いたけど、自分の気持ちを偽っていい格好しいをするよりも、さらけ出してしまったほうが精神的に楽だったというのがあるのですね。それによって不利益も被るかもしれないけど、そのときはそのときだと割りきりました。もう歳も歳だし、今さら着飾っても素敵な恋が待っているわけじゃないですしねw。
そんなぼくでも、やっぱりfacebookでは少し身だしなみに気をつけてしまうことがあります。何でもかんでも紐付けて私生活を晒すのも、それはそれで気を使っちゃったりするんですよね。こんなニュースもありましたね。
「キター!県民の皆さん」「新聞に抗議。不買運動しましょう」 Facebookで奈良県幹部が“暴走” – ITmedia ニュース
どうなんでしょうね…。まとまりなくなっちゃいました。
関連しているかも?:
- ライトハウスライブラリーでFacebook講習会 (2011年11月28日)
- 自分を正しく保つ (2015年12月1日)
- 自分は時代にめぐまれていた (2016年3月10日)
- GC療法を受けるという選択 (2013年6月8日)
- 薬で血圧が劇的に下がって思うこと (2017年5月19日)