嫁さんの母親の母親が亡くなりました。享年93歳。
天寿を全うしたと言われるかもしれないけれど、祖母は64歳の時に倒れ、以来30年を施設のベッドの上で過ごしました。人生の三分の一を寝たきりで過ごしたその生涯は決して恵まれたものとは言えないように思います。
祖母は宍道から松江の小さな集落に嫁いで、娘二人と息子一人をもうけました。娘二人は嫁いで家を出、詳細な事情は知らないけれども、息子は家を出て行方しれずになりました。夫が倒れその看病がたったのかまた自らも倒れ、施設に入所しました。
ぼくはその家に行ったことがあります。三方を山に囲まれ谷間に数戸が寄り添うように集まった小さな集落の奥、車も入らないような坂を上がったところにその家はあります。茅葺き屋根、便所は別棟、家畜を飼っていた小屋もあります。家の下には斜面にわずかばかりの畑があり、家の上には竹やぶがしげり、その茂みをくぐると墓があって、まるで昔話に出てくるような家でした。しかし家主を失い、継ぐものもいない家は荒れていました。何十年もふきかえていない屋根はいつ崩れるかもわからないから、奥に入ってはいけないと言われました。
嫁と結婚することになって、施設に挨拶に行ったことがあります。すでに発語は難しい状況でした。よろしくおねがいしますというと、うんうんと頷いてくれただけでした。ぼくと祖母とのかかわりはただそれだけのことです。
嫁は小さい頃にはその茅葺き屋根の家にも泊まったりして、また別の感慨があったと思います。施設にもたびたび訪ねておりました。
私たちは亡くなった報せを受けて入院していた病院に行き、義母とその姉のお手伝いをしました。葬儀社の手配、通夜の段取り、お坊さんの段取りなど慌ただしく時間が過ぎて行きました。とはいえ、葬儀はごくごく身内で済ますことになりました。近所の人、といってももう30年も交流がないわけですし、その集落ももはや年をとったお婆さんが一人住まうだけと聞きます。友人知人の類もおらず、おったとしても連絡する手段もなく、出自の宍道の親戚も二代目三代目となっているのです。
結局義母の家族と孫である私達、義母の姉の家族とその子供、宍道の親戚数組だけのひっそりとした通夜と葬式となりました。喪主は義母の姉の旦那さんがつとめました。今まで経験した中で一番、寂しく静かな葬儀でした。しかしそこには死者を送るという行為そのものがあるように思いました。血もつながってもないのに、なぜだか一番濃い葬儀だったように思います。
このように家というのはなくなっていくのだなと思いました。そして、ほんの少ししか関わり合いのなかった祖母の死なのに、書いておきたくなったのでした。
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