ものに魂が宿る

小商いをやっていると日々たくさんのお金を取り扱います。もっともそれらの大半は、経費や仕入費用となってまた手元から去っていくわけですが。

これらのお札や小銭をみていると「このお金はどんな人の手に渡ってきたのだろうか」とふと思うことがあります。今支払ってくれた人、その人も何かのお釣りでその千円札をもらったのかも知れない。

ギザギザのついた十円玉はすでに発行されてから半世紀以上経たものです。何百人いや何千、何万もの人たちの手を渡ってここにあるのかもしれない。そんなことを思うのです。
その十円玉を公衆電話に積み上げて恋人に電話をしたのかもしれません。お小遣いの中から駄菓子を買ったのかもしれません。たったひとつの十円玉にはいろんな人のドラマがつまっているような気がします。

岡本綺堂は修善寺の宿で火鉢の灰に人の思いを読み取りました。

 修禅寺では夜の九時頃にも鐘を撞く。
 それに注意するのはおそらく一山の僧たちだけで、町の人々の上にはなんの交渉もないらしい。しかし湯治客のうちにも、町の人のうちにも、いろいろの思いをかかえてこの鐘の声を聴いているのもあろう。現にわたしが今泊まっている此の部屋だけでも、新築以来、何百人あるいは何千人の客が泊まって、わたしが今坐っているこの火鉢のまえで、いろいろの人がいろいろの思いでこの鐘を聴いたであろう。わたしが今無心に掻きまわしている古い灰の上にも、やるせない女の悲しい涙のあとが残っているかも知れない。温泉場に来ているからと云って、みんなのんきな保養客ばかりではない。この古い火鉢の灰にもいろいろの苦しい悲しい人間の魂がこもっているのかと思うと、わたしはその灰をじっと見つめているのに堪えられないように思うこともある。(綺堂むかし語り)

長く使うものには魂が宿るのかもしれません。今はどんどんものを消費して捨ててしまう世の中です。ものに魂が宿るヒマもないのかもしれません。

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