記憶はやがて歴史になる

今年も広島に原爆が投下された日が巡ってきました。子供の頃からテレビを見て、この日だけは何か特別な気持ちになったものです。毎年毎年同じような暑い夏の日に、同じような式典をテレビで見て厳粛な気持ちになることを繰り返してきたように思います。

今日も子どもたちが平和の鐘をつき、平和への誓いを述べていました。「命の尊さを 平和への願いを 私たちが語り伝えていきます。」と締めくくりました。その光景を見ながら、変わらない式典と、すでに戦後71年が経過していることのギャップになんとなく心がざわつくのです。

もちろん、ぼくは戦争を体験したわけではないので、原爆が招いた悲惨さをどれほども知りません。それでも、ぼくが子供の頃には周りに戦争を体験した大人がたくさん残っている時代でした。直接に戦争を生き抜いた人が語る平和への希求は重みがあったように思います。まだ戦後20年ほどという時間は、戦争の惨禍を忘れ去るには短いものだったのでしょう。

しかし70年という時間は、もはや実感のある出来事とは言えないのではないかと思うのです。ぼくが小学生であったころの70年前というのは、日露戦争の時代です。当時のぼくは、広島や太平洋戦争をかろうじて実感をもって感じることができても、日露戦争の実感はとても持ち得ませんでした。日本海海戦での勝利も、203高地の犠牲も、それは歴史上の出来事でした。

今、平和の鐘をつき、平和の誓いを述べる子どもたちは、70年も昔のことを真に実感のこもったものとして捉えることができているのかどうか。それをさせるのは、オトナの傲慢ではないかとすら思ってしまいます。

日露戦争と原爆とでは意味合いが違うと言われるかもしれません。しかし、こうして少しずつ記憶が歴史となっていくのは、しかたのないことではないかと思います。平和の大切さを語ると言っても、実感のこもった平和への希求は薄れ、なんとなくお題目を唱えるようなことになりはすまいか。もうまもなく戦争を体験した日本人は誰もいなくなります。

ぼろぼろになった制服や、焼け焦げた三輪車だけが、かろうじて説得力を持つようになるのではないか。なんともやるせないのですが、やがて歴史の彼方に忘却しなければ、人もまた前に進めないことになるのであれば、しかたのないことかもしれません。

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