半世紀を生きた

子供の頃にはノストラダムスの大予言というのが流行っていまして、1999年に世界の終わりがくるなら、自分は34歳で終わりだなと漠然と思っていました。

29歳で白血病を患った時に余命5年位と聞いて、世界が終わろうが終わるまいが本当に自分は34くらいまでには死ぬのかと暗澹とした記憶があります。

それが時代に恵まれ人に恵まれ、どういうわけか延々と生き延びて、ステージⅢの膀胱がんになってもさらに3年余を無事過ごして、とうとう50の歳になりました。病気を通して知り合った方々の多くが、志半ばにして夭折される中で、まさか自分がここまで生きられるとはとても思いませんでしたが、いざこの歳になるとあっという間の出来事だったなと思うのです。

誰もが感じられるとは思いますが、心の持ちようは高校大学の時とそれほど変わらないのに、まわりだけはいつの間にか変化して、いつの間にか自分もそれなりのところに祭り上げられてしまっているのが不思議でなりません。

まるで相対性理論のウラシマ効果のように、自分の時間よりも周囲の時間の流れが速いのです。もっとも自分の時間が遅くなるのは心のなかだけのことで、外見をはじめ体の組織はしっかり老化しているわけですが。

ぼくは昔から記録をとったり写真を撮ったりすることに中途半端にこだわっていたりするのですが、この自分は変わらないように思えて実は変化している、という事実への恐れが、記録への欲求につながっているのかもしれないと最近思うようになりました。

代わり映えのしない日々、けれども失ってしまうと二度と取り戻せない日々。それらが今になってみると、いかに貴重でかけがえのないものであったかと思うのです。その断片が手元にないことの残念さが、今になって記録をとろうという気持ちにつながっています。いつの間にか変わっている風景、持ち物、成長する子どもたち…。文字や映像に残しておくことで、それが実際にあったことだという安心を得られるような気がするのです。

自分の人生の終わりともにそれらすべてが無に帰するとわかっていても、もっと文字を書いて、もっと景色を切り取っていかねばと、急かされるような気がするのです。

とはいえ、この程度の文章をぽつりぽつりとアップするのが精一杯。この歳になれば、もっと実のある文章を書けるようにならなければいけないのでしょうが、なかなかできるものではありません。昨日と今日と自分が変わるわけでもないとわかっていても、50という年齢は何かしら自分にプレッシャーをかけてくるような気がします。

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