先日、長男がサッカー部の練習を途中で放棄してひとりで歩いて帰ってきました。試合形式の練習をしていたときに、ファウルを取られなかったという、傍から見れば些細な事だと思うのですが、それが本人には耐え難い屈辱だったようです。
この例にかぎらず、最近少しずつサッカー部の中でギクシャクしていたことは確かなようです。本人は、やる気のある時とない時の差が極端で、パスを出されて追いつけないとパスを出した人に不満をぶつけたり、自分の放ったシュートが外れてこぼれ球をチームメイトが決めても全然嬉しそうな顔をしないなどということがよくあります。要するにサッカーがチームプレーであることがなかなか理解できていないのです。
そんな長男に、チームメイトや保護者さんたちは本当にフォローをしてくれて、気を使ったプレーをしてくれるわけです。それは本当にありがたいことです。けれども、チーム全体がうちの長男の顔色を伺いながらプレーをするようになってしまいました。
コーチはそれを見逃しませんでした。サッカー部としてこれから良い成績をあげていくためには、長男に対し、チームプレーを考えて行動をしてもらわないといけないということを指導されました。それが本人には非常に厳しく映っていたのです。
入部当初から懸念をしていた、個人と全体のバランスをとりにくい発達障害特有の問題が、いよいよ顕わになってきたのでした。
長男はサッカー部をやめると言いました。
ぼくは最初腹がたちました。嫌なことがあるとすぐに放り出したりする、その安易な生き方が許せない気がしました。まわりの友達が、大人たちが、お前のためにどれほど気を使い、どれほど手を差し伸べてくれていることか。それを感謝するどころか、その手を振り払うようなことをしているくせに、自分だけが不幸みたいな顔をするとは何様のつもりか、と。
すると長男は言ったものです。「他の人がなんで俺に気を使ったり、助けようとするのかわからない。俺はそんなことを思ったことがない。嫌な思いをするくらいなら助けないほうがいいんじゃないか」
それが子どもの強がりとかではなく、真顔で語られたことに、ぼくは愕然としました。
他人に助けられたら、また同じように人を助ける。むしろ他者が幸せになることが、自分自身の幸せであると確信し、自分自身そう生きてきたつもりです。それと全く反対の考えを持っている人がいて、それが他ならぬ我が子であるとは、なんという皮肉でしょうか。ぼくは、今までの自分の人生をすべて否定されたような衝撃を受けました。
ぼくは腹をたてるのをやめ、一人の人間としてぼく自身がどういう人間でありたいと思っているか、そのような考えにいたった理由は何か、静かに長男に話しをしました。長男に理解できたかどうかはわかりませんが、最後まで黙って聞いていてくれたのは救いでした。
「父ちゃんとしては、お前に変わってもらってまた部活を続けて欲しいと思っているが、それを無理強いはしない。じっくり考えて自分で結論を出しなさい」と言いました。
次の日、サッカー部の練習には参加せず、コーチと最後まで話していたようです。そのうえで、やはり長男はサッカー部をやめることにしたようです。
彼なりに真剣に考えて出した結論なのでしょう。ぼくはそれを受け入れることにしました。ただし、これまで支えてくれた友達やコーチに感謝はしなければならないと言うと、頷いていました。
長男は「サッカー部ではダメだったけど、俺は学校で変われるように頑張るけん」とポツリと言いました。それがぼくには嬉しかった。おそらく彼の心は以前のままです。けれども、違う考えもあるのだということを理解しようとしているのは間違いない。そこまでで今は十分ではなかろうかと思うのです。
サッカー部の皆さんには、年度の途中で、しかも最終学年で抜けることで、ご迷惑をおかけするのがとても忍びないですが、難しい気質の息子を優しく受け入れてくださったことには感謝の念しかありません。
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