2013年4月4日。ぼくは一度死に、生まれ変わりました。
3年たった今でもそうだったのだと思っていますし、3年前の今日も「明日は死ぬのだ」と思っていました。そうなることは稀であるにしても、比喩でなく本当に死ぬこともあるだろうと覚悟をした日でもあります。
自分なりに納得してあの投稿をしたのですが、そこに至るまで不安に押しつぶされそうな気持ちで過ごしていたことを今でも思い出します。
あの日は、本当によく晴れていて、病室の窓から見下ろす町並みがとても輝いて見えました。自分の心に渦巻くような不安とは本当に対照的な光景で、ものすごく印象に残っています。
このざわざわとした気持ちをどうすれば鎮めることができるだろうか、そんなことをひたすら考えていました。もし、ぼくに信仰があったら楽になっただろうかと思ったものです。
自分の力ではどうにも及ばない状況に追い込まれ追いつめられた心を、神や仏に預けることで、不安や怒りといった負の感情を癒やすことができたかもしれないと思いました。苦しみから自分を救い、心に平穏をもたらすことができるのならば「苦しい時の神頼み」は間違っているどころか、すばらしい人間の叡智なのではないかと思いました。
もっとも、神頼みを人間の叡智と言ってしまうところが、ぼくの信仰のない所以であります(信仰のある人にはさぞ傲岸不遜に映るかもしれません)。
ただ、信仰を持っていないものは、不安をひたすらに自分自身で受け止めなければならないことを痛感しました。今のこの不安は何からくるのであろうか、その原因を探り、それが解消するような、納得できる論理を自分だけで構築していかねばなりません。
ぼくが最終的にたどりついたのは、明日の手術がうまくいくかどうかわからないからこそ不安になるのだという結論でした。ならば、明日本当に死ぬとしたらどうだろう、自分にできることがあるだろうかと考えました。そうすると、ほとんど何もないことい気づいたのです。
それは、もう少し子供の成長が見たかったとか、金を残してやりたかったとか、いろいろ未練はあるんだけど、もう明日死ぬのだったら、今更どうしようもないわけです。さらに、手術中の事故で死ぬのなら、麻酔で眠って目が覚めないわけですから、たぶん痛みも苦しみもないでしょう。一番安楽に死ねるではないかと思いました。
まあ諦めたといえばそうなのかもしれません。でもそれですっと気持ちが楽になったのでした。
唯一最後に自分にできることといえば、ぼくと関わった人への感謝と、その人の心のなかに、少しでもぼくの居場所がありますようにと祈ることだけでした。
それで心の澱がすべて清められたわけではなかったかもしれませんが、その夜、ぼくはぐっすりと眠り、翌朝をすっきりとした気持ちで迎えられたのです。
生に執着すれば不安が募り、死ぬと諦めると不安が去った、という経験はとても貴重で不思議なものでした。それは生き延びている今なお、常に頭のなかにあります。次に死ぬときは、ぼくはどう考えるのでしょうか。どうせなら生命を受けたことを感謝しながら死んでいきたいものです。
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