普段自動車で走る道を歩いてみます。歩いていると、ちょっとした景色が目にとまることがあります。それは車で走っていては見落としてしまうささやかなものです。
国道の端にお地蔵さんがありました。まだいきいきとしたお花が供えられていました。車が常に行き交うこの道端にあって、いつ誰が供えているのだろう、ふとそんなことを思いました。
由来はわかりません。交通事故がここであって、その関係者が供えているのかもしれません。けれどもそれはわりと古びたお地蔵さんでありましたから、あるいは昔から境の神として祀られていたのかもしれません。地元の人がささやかな信仰をもって供えているのかもしれません。
いずれにせよ、車で走れば見逃してしまいそうな小さなお地蔵さんには、毎日のようにどなたかが花を供え手を合わせているのです。当たり前のようにその景色が見えたけれど、それがだんだんとても尊いことのように思いはじめました。
花を供えることを、誰が褒めるわけでもない、気づかれることすらないかもしれない。それでも花が供えられているのです。こういうことができるのが、人間の素晴らしさではないか、と思いました。
この世知辛い世の中にあって、そんなささやかな行いがあることを見つけることができた。これもまた歩くことのご褒美なのでしょう。
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私の通勤途中にもいらっしゃいます。
いつからか?
仕事終わりの毎週金曜日にそこに車を停めてお茶を納めています。
なんか自分だけのパワースポットみたいに感じ始め毎週日課です。
金曜日以外にも少し疲れたり悩んだりした時には立ち寄りタバコを吸いながら話してます。
変な人間に思えるかもしれませんが心が洗われる感じがします。
立ち寄らないとお地蔵様に怒られる気までして来ました。一昨日も夜中の帰宅時に立ち寄り周りの草取りをしてきましたよ。
ご覧いただきありがとうございます。お地蔵さんを世話することによって、自分の心が整理されたり、清められたりするのはあるかもしれませんね。誰に見られることなくても、自分が満足することだからお世話をするというのが理由なのでしょう。ありがとうございました。