ありがとう にゃんた

うちにやってきた時のにゃんた
我が家の飼猫にゃんたは、2001年の秋、当時やっていた喫茶店の前に佇んでいました。まだ生後一月かそこらでした。ほうぼう飼ってくれる人を探しましたが、なかなか見つかりませんでした。

当時結婚して3年。ぼくの病気のせいで子供は無理だろうといわれていたので、きっと子供の代わりに我が家にきてくれたのだと思って飼うことにしました。

家でくつろぐにゃんた

トイレのしつけはなんにもせずとも当たり前のようにトイレで用を足しました。餌がほしい時は、鳴くこともなく、皿の前でいつまでもじっと待っていました。人見知りもせず、来客があれば自分から擦り寄っていく、本当に手間の掛からない猫でした。

それから後に、思いもかけず人間の子供が生まれました。きっと、にゃんたは招き猫だったんだと夫婦で話しました。親の愛情が人間の子に移っても、にゃんたはへそを曲げるようなことはあまりありませんでした。子供にちょっかいを出すこともなく、ちょっとだけ距離をおいていつもそばに寄り添っていました。

こどもとにゃんた

やがて子供が成長して、お父さんの膝の上を占領するようになったら、それまでの特等席を子供に素直に譲りました。子どもたちがちょっかいを出すようになっても、たいていされるがままにしておりました。しっぽを踏んづけた時はさすがに怒りますが、フーッというだけで反撃するようなことはありませんでした。

ぼくが3年前にがんで入院をした時は、にゃんたも歯肉炎がひどくなり抜歯手術をしました。そのときのことはこのブログにも書きました。

第2クール第9日 ニャン太 | fumiton.nyanta.jp

同じようなときに飼い主とともに手術沙汰になるとは、まるでぼくの痛みの半分を引き受けてくれているようでした。

痛々しいにゃんた

近頃は随分大人しくなり、いつも暖かい場所で寝てばかりいました。平均12歳程度といわれる猫の寿命からすると、15歳になったにゃんたはすっかりおじいさんでした。

窓辺で眠るにゃんた

2月に入ると、めっきり餌を食べる量が減り、だんだんと痩せこけてきました。動物病院に連れて行くと、先生は「なんでこんなになるまで連れて来なかった」と怒りました。腎臓がほとんど機能していないせいか、水をよく飲む割には脱水症状が進んでいました。レントゲンでは内臓に影があり、骨格に歪みもあり、いろいろなところが悪くなっていました。

点滴をして、色々なタイプの餌を渡されました。いろいろ変えてみて、とにかく食べられるかどうか試してみよとのことでした。

家に帰ってからいろいろと餌を変えてみましたが、どれもわずかしか食べませんでした。老齢となったにゃんたが、まるで自らの意志で食事を拒否しているように思えました。きっと彼は、従容として死につかんとしているのだと思いました。

最後に動物病院に連れて行くと「入院するかどうするか、治ると思うなら入院させなさい」と先生は言いました。ぼくは入院させないで家に連れて帰ることにしました。

栄養を無理やり与えるのではなく、自然に任せてこうして枯れ木のように死んでいくのは、きっといきものの本来の姿なのだろうと思いました。きちんとこのまま最後まで見守ってやろうと思いました。

その日、にゃんたはいつものように足をかかえ座ると、透き通った目でぼくを見つめました。悟ったような、ぼくの心を見透かすような、澄んだ目でした。それから目を閉じて、また眠りました。

動物病院に行った最後の日

衰えはあっという間でした。その日の夜には、立つと後ろ足が震えました。前足と後ろ足を投げ出して、ぺたっとじゅうたんの上に潰れたように寝ました。横たわるにゃんたを前に、家族とこれからのことについて話をしました。

このまま餌が食べられなければ、やがて衰弱して死んでしまうだろう。でももう治す方法がないので、病院にはかからない。これからは一日一日が大切だから、みんなで最後まで見守ってやろう。

子どもたちは泣きました。特に次男は普段からにゃんたをかわいがっていたので、大声で泣きました。長男は「まだ可能性はあるから、泣いたっていけない」といいながら目をおさえました。嫁さんはその日からにゃんたと添い寝をすることにしました。

翌日は、もう立つこともできませんでした。這って布団からでてきて、さらに平べったく寝そべりました。ただお腹が上下に動くので、まだ生きているとわかるのでした。口元に水を持って行ってやってももはや飲もうともしませんでした。

夜になると、薄目をあけて顎が落ちてきました。体を動かそうとするけれども、うまく動かないので、向きをかえてあげたり頭を支えてあげたりしました。長男は「まだ可能性はあるんでしょう」と聞きました。ぼくは「水も飲めなくなったし、もう可能性は無いと思う」と正直に言いました。その日、はじめて長男は激しく泣きました。

最後の日の朝は、もうお腹が動いていませんでした。時折、ぴくっと全身が震えて、それでまだ命がつながっているサインでした。少しずつ体も冷たくなってきていました。子どもたちに「たぶんもう最後だからなでてあげなさい」といいました。

子どもたちが学校に行った後、しばらくすると体の震えがとまりました。嫁さんが抱き上げると首ががくっと落ちました。2月25日午前7時50分、にゃんたは15年ちょっとの生涯を閉じました。

にゃんたの亡骸を抱く

どこか痛いとかいって鳴くこともありませんでした。動けなくなってから2度ほど吐きましたが、おしっこを漏らすことはありませんでした。誰にも何も迷惑をかけずに息をひきとりました。本当に立派な死に方だったと思います。

その日、家でひとりにしておくのも可哀想で、毛布にくるんで事務所のぼくの机の横に寝かせてやりました。だんだん固くなっていく体を時々さすってやりながら、ちゃんと葬式はしてやらんといかんと思いました。

夕方、子どもたちが帰ってくるのをまって、ペット専門の斎場に行きました。料金計算のために体重を測ると2.9キロでした。それは元気だった頃の半分以下の重さでした。にゃんたはきれいな箱に収めてもらい、祭壇のある部屋で最後のお別れをしました。

最後のお別れをする

たかだか飼猫が死んだだけではないかと言われるかもしれません。けれども、にゃんたとすごした15年間は、ぼくら夫婦の歩みでもありました。常に身近にいたにゃんたの死は、家族に深い悲しみをもたらしました。そして、にゃんたは自らの死をもって、家族に大切なものを教えてくれたように思います。

毎日そこにいるのが当たり前の存在だったにゃんたがもういない事実は、子どもたちにはとてもショックだったと思います。昨日と同じ日は二度と無いこと、一日一日を大切に過ごさないといけないことをにゃんたは教えてくれました。

また、家で最後を看取ることができたのは、とてもよかったと思います。現代は生命が尽きる瞬間を目の当たりにすることはなかなかありません。だんだん衰弱していくにゃんたを見るのはとても辛かったですが、生と死について考える貴重な機会を与えてくれました。子どもたちもきっと感じ取ってくれたと思います。

にゃんたは骨になって家に帰りました。すべての骨が納められた小さな骨壷を見て、ようやく気持ちが落ち着いたように思います。残されたものが気持ちの整理をするために、こうした儀式は必要なのでしょう。それが人であれ動物であれ、葬儀というのはそういうものかもしれません。

ありがとうにゃんた。一緒に暮らせてよかった。

在りし日のにゃんた

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