うちは商売をしているので、家のことも顧みず、年末ぎりぎりまで仕事をしています。子どもたちは、どこに連れて行ってもらえるわけもなく、正月気分もあまりないまま、冬休みを過ごさなくてはなりません。
そんな中、お客さんに来年のカレンダーを渡してくれたり、レジで釣銭を渡してくれたり、今年は長男がずいぶん仕事を手伝ってくれています。それで、夕方くらいになると「で、いくらくれるの?」と。「何を言っているか」と一喝すると「手伝って損した。手伝わなければよかった」と、機嫌を損ねる。まるで落語の「真田小僧」ですが…。
けれども、昨夜のことです。もう寝るかと布団に入ったときに、「父ちゃんには感謝しないといけない」と長男が言ったものです。どうしてかと問うと「オレはもう夜になると疲れてイライラするけど、父ちゃんはあれだけ働いて疲れているのに、オレをあちこちよく連れて行ってくれたもの」。
うれしいと言うよりも驚きが先でした。
長男は広汎性発達障害であり、常に自分中心でしか物事を考えられず、相手の立場になって物事を考える能力が欠落しているものだと思っていたからです。それは、脳機能の障害によるもので、そういう発達障害の人は、相手がこういう態度ならこう対処すべき、というパターン学習によってしか、社会性を身につけられないと教えられ、またそういうものだろうと思っていたからです。
しかし、昨夜の長男は、誰に強制もされず、自らの考えとして、父親の状況を把握し、父親の立場に立って自分を客観視することができました。それは、人間としてなんの問題もないばかりか、きわめて成熟した反応ですらありました。
ぼくは今までの長男対する接し方について、考えをあらためないといけないと思いました。
自分自身が、彼に病気というレッテルを貼って、どこかそこに安心をしていたのです。何か問題があっても「息子は病気なのだから」という言い訳をしていたのです。息子はこういう人間なのだから、作業療法的な指導をしていかなくてはいけないという型にはめようとしていたのです。
しかし、彼の中には、他人を慮る心、他人に共感する心が、しっかりとあることが確認できました。それは他の人よりも小さなものかもしれません。しかし、他人に共感する心がある限りは、それを自らの力で大きくできる可能性があります。
彼の可能性を信じて、手伝ってやることがぼくの役割なのではないか。それなのに、今までの自分は、病気という枠にはめて、彼の成長の可能性を摘み取ってしまうところだったのではないか。
長男は昨夜のことは何もなかったかのように、今朝はまた以前のわがままが戻ってきて「年末にどこにも連れて行ってもらえない」と悪態をついています。弟をこき使い、自分のできないことを人のせいにしています。
しかしこれからは、作業療法的なアプローチは控えて、こちらが共感をするやり方で接していこうと思います。それは、困難な方法ですが、彼の心に共感する力がある以上は、その力を伸ばしてやらねばならないと思うのです。
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