今年もまた、友達だった人の命日が来ます。遠く離れているので、お墓参りに行くこともないけれど、その日が近づくと、なぜ彼が死んでぼくが生きているのか、そんなことを思います。
同じ慢性骨髄性白血病という病気で、同じ薬を使って治療をしていたのに、彼にはその薬が全然合わず、ぼくにはその薬が効果があった。その違いが生死を分けたのです。
彼は薬が合わないために、骨髄移植しか手段がなく、しかしドナーも見つからず、最終的には多臓器不全を起こして亡くなりました。ぼくは、その薬が完璧とは言えないけれどもまあまあ適合して、のらりくらり暮らしているうちに、より効果的な新薬が認可され、こうして今も生きています。
その後、ぼくは膀胱がんにもなりました。腫瘍細胞が臓器内にかろうじてとどまっているステージ3でした。もう少し発見が遅かったら、臓器を破りリンパ節に乗って、がん細胞が体中に散らばっていたことでしょう。
もちろんもっと早期に発見できれば、膀胱摘出することもなかったでしょう。けれども、ステージ4という厳しい状況はわずかの差で回避しました。そのため、いまや普通の人とそれほどかわらぬ生活ができているのです。先頃、俳優の今井雅之さんがステージ4の大腸がんを告白して、すっかり痩せられたのを見たりすると、ぼくも紙一重のところだったのだと身震いします。
ぼくが今なおこうして生きているのは、本当に「たまたま」なのです。たまたま薬が適合したし、たまたま手術が成功したし、医学の進歩の節目にたまたま生きていたということなのです。
それは、ぼくが「とてつもない幸運の持ち主であった」ということでもないし、「生かされているのは神様の思し召し」でもないと思うのです。
きっと、今生きている人はみな幸運に恵まれているのです。しかし、誰もがそれは当たり前と思っているのです。ぼくもそう思っていました。しかし、死の近くをうろうろしたことで、それはほんの「たまたま」のことだ、という感じを強く持つようになりました。
命をわけるものは、ほんの偶然の出来事にすぎないというこの不条理。
「人間はひとくきの葦にすぎない」そういや読むのに挫折したパンセでありましたなあ。
彼を押しつぶすために、宇宙全体が武装するに及ばない。蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。だが、たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。なぜなら、彼は、自分が死ぬことと宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない。
人間の惨めさ、運命の理不尽を知ることこそが、人間の尊さであるとパスカルは言います。哲学というのは、いつもこんな禅問答みたいなことを言うので、納得ができません。今も納得しているとは言いがたいけれども、死の近傍を歩くと、実感として言わんとしているところはわかるのであります。
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