夜は子どもと一緒に午後9時ころには寝てしまいます。しかし、必ず日が変わる頃に起きだして、トイレにいかねばなりません。なぜなら3時間から4時間で新しく作った膀胱が満量になり、この時間をこえると尿漏れしてしまうからです。
日中ならば、こうなる前にトイレにも行けるし、腹圧のコントロールもできるので漏れるようなことはほとんどありませんが、就寝中は意識がないので、一定量をこえるとどうしても尿漏れしてしまいます。だから夜間は大人用オムツを履いて寝ています。オムツを履いていれば、外に漏れることはあまりなく、いわゆるおねしょはしません。けれども、オムツを履いていようがいまいが、排尿してしまった気持ち悪さは感じるので、そこで目が覚めてしまいます。また、その気持ち悪さが頭に染み付いてしまったのか、尿漏れしなくても自然と3〜4時間に一度は目が覚めるようになりました。
考えてみると5月に尿管カテーテルが外れて以来、ずっとこのような生活パターンが続いています。もう、朝まで熟睡するということがなくなってしまいました。朝まで熟睡するには、尿漏れをしても眠り続けるくらいに太い神経が必要かもしれませんが、ぼくにはどうやら無理のようです。
深夜にトイレに起きてから、しばらくなかなか寝付かれず、ぼんやりと来し方行く末を思ってため息が出ます。
一年前にはできていたことが、今やもうできなくなってしまった、ということがいろいろとあります。そのできなくなったことを受け入れざるをえないことこそ、老いというものではないかとふと思いました。
熟睡することも、そのひとつ。8時間も9時間も連続して眠ることができなくなった、その事実を受け入れることで、自分の中でひとつの時代が終わったように感じるのです。その時、かつて当たり前のようにできていたことは、自分の頭のなかに思い出となって封じ込められてしまいます。
ぼくは、手術によって、リンパ節から前立腺までかなりの部分を切除したため、生殖機能を失いました。すでにそれが必要な年代、というわけでもないのですが、事実として受け入れなければならなかったときに、生物としての存在価値がなくなったように思えて愕然としたものです。これも受け入れなければいけない老いのひとつといえるでしょう。
一方、体力がなくて、少し歩いただけでたいへん疲れていること、これにはまだぼくは抵抗をしています。トレーニングをしていけば、やがて体力が回復すると信じています。今はできなくても、それを受け入れず、将来に向かうことができるとき、そこに老いを感じません。しかし、いくらトレーニングをしても希望する体力まで戻らず、その事実を受け入れなければいけない時、またひとつ老いていくのだろうと思います。
受け入れる老いと受け入れられない老い。そのせめぎあいを、これからぼくはしていくことになるのでしょう。時とともにひとつひとつ失うことが増えて、老いていくのでしょう。そして、老いていけば、失った数だけ、思い出の数だけが増えていくのでしょう。
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