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手術日の記憶

指輪と時計
4月4日、午前9時20分。指輪や時計を嫁さんに預け、血栓症を避けるための靴下を履いて、ぼくは手術室に向かいました。2ヶ月前も通った道を通り、一番奥の手術室に入るとエンヤがかかっていることにはじめて気がつきました。前回は緊張していて気づかなかったのかもしれません。

いや緊張といえば、やはり今回も心拍計の早さはびっくりするくらい早く、血圧も高く、看護師さんに「緊張しているのかな」と苦笑しました。何しろ麻酔などの前処置に1時間半、膀胱摘出の本手術に7時間かかると聞いています。9時間近くこれから意識がなくなるのかと思うと、鼓動が早くなるのでした。背中に麻酔のカテーテルをつけて、酸素マスクを被されて、左手の甲からの点滴で全身麻酔をかけられました。麻酔の先生が「麻酔がかかるまで、大きく深呼吸してください」と言われたので、これは確かに数を数えたのですが、5回深呼吸する間に意識がなくなりました。

その日の意識は目が覚めた後も非常に混濁していて、長時間の全身麻酔の後というのは夢ともうつつともわからないふわふわした感じなのだなあと思います。視覚の情報というのは割と残ってないけど、聴覚というのは割とはっきりしていて、聞いたことは覚えているのでした。

「採血をしますか、やめますか」という声が聞こえ、「ダメならやめましょう」と応えるのが聞こえます。ああ、これは手術後に採血をするって言っていたことだなと思いました。大方、採血に失敗したんだろうと思いました。

気管チューブを抜かれたのもかすかに記憶があります。その直後に嫁さんを視認したのでしょう「今なん時?」と声に出したつもりが、全然出なくてびっくりしました。でも嫁さんはわかったようで「9時20分」と言いました。予定では7時ころだったので、ずいぶんかかったなと思いました。

スマートフォンを操作する動作をしてiPhoneをもらい、生還したと書き込みました。これがまた全然フリックができなくて、入力するのに時間がかかりました。そのあと、カメラアプリを起動して、嫁さんに渡し「せっかくだから写真を撮ってくれ」と言いました。その写真をそのとき見たかどうか覚えてないですが、カメラロールにはひどい顔色をして横たわる自分が残っています。

もうそのときは嫁さんと病室に二人だったのでしょう。先生から説明を受けた手術の様子を話してくれました。3年前に盲腸をしたときの小腸の癒着が激しくてなかなか腸管を切ることができず、時間がかかったこと。大量出血をしたので輸血をだいぶ行ったこと。それでも手術は予定通り、代替膀胱を作成する手術にしたこと。そんなことを話してくれました。そして10時まで手を握ってくれました。

ぼくの記憶はこれが全てです。ところが荷物を持って帰ってくれとかとも言っていたようで、嫁さんがすべての荷物を家に持って帰ってしまっていました。翌日の未明にはしっかりした記憶に戻ったけれどiPhoneもないし、時計もないし、身体は動かないしで不安な夜明けを迎えたのでした。

夏目漱石「思い出すことなど」

夏目漱石は1910年に療養先の修善寺で大吐血をして、危篤となりました。しかし、その時漱石は自分が30分の間人事不省に陥ったことを全く理解していませんでした。その時のことは「思い出すことなど」に詳しく書いてあります。

強いて寝返りを右に打とうとした余と、枕元の金盥に鮮血を認めた余とは、一分の隙もなく連続しているとのみ信じていた。その間には一本の髪毛を挟む余地のないまでに、自覚が働いて来たとのみ心得ていた。ほど経て妻から、そうじゃありません、あの時三十分ばかりは死んでいらしったのですと聞いた折は全く驚いた。

この項を最初に読んだ若い時には、そんなものかなという思いしかしませんでしたが、今では漱石の書いたことがすっかりよくわかるような気がします。

今から2年前虫垂炎で入院をしました。当初は局部麻酔で患部を摘出するはずでしたが、かなり癒着していたためになかなか摘出できず、そのうち麻酔が切れてきたため、全身麻酔に切り替えて手術をしてもらいました。

その全身麻酔の経験が、漱石が書いたこととほとんど変わらぬものだということにぼくはいささか衝撃をうけたのでした。

マスクをかぶされて意識がなくなった次の瞬間に、ぼくは種々の管に繋がれてベッドの上にあったのでした。2時間ほど経っていたのですが、僕の中ではそれは完全に連続した時間であったのです。

それは睡眠とは全然違うものです。麻酔されていた2時間の間は自分の中では完全なる「無」でした。なにもない。遠くに声が聞こえるとか、魂が離れて自分を見ているとか、そんなものもない。麻酔から覚めるときも、ああ帰ってこれそうだとか、音が聞こえてきたとかそんなこともない。自分の中では完全に連続した時間なのに、次の瞬間には様子もなにもかもが変わっていて、時間だけが過ぎていたのです。

麻酔から覚めて帰ってきたからこそ思うのですが、あの完全なる「無」こそが、いわゆる「死」ではないかということに思い至ると、なんともいえない愕然とした心持ちになるのです。それは恐怖とも違うし、安堵とも違うし、何しろ意識も何もない完全なる「無」なわけですからどうとも説明のしようがない。ただ、今生きているからこそ、当時を振り返れば、ゾッとするのです。

ぼくなぞはそれだけの表現しかできないのですが、漱石はそれを丁寧に描写して後世に残しうるのだから、さすがは文豪のなせる業に驚嘆するのでした。

「思い出すことなど」は随筆ではありますが、漱石の書いた作品では一番印象深く、とりわけ病身になってからは繰り返し繰り返し読み返しています。

退院一週間で全快。

退院から一週間経ち、ぼちぼちと仕事をしたり休んだりを繰り返していました。傷口にはあいかわらずガーゼをあてて血のしみ出すのを受け取り、それがとまるのを待っていたわけですが、一昨日くらいからだいぶしみ出す量も少なくなってようやく傷口もふさがってきた様子のところに外科の外来診察がありました。

執刀してくれた先生が傷の様子を見て「それじゃあこれで終わりにしましょう」とのことで、今回の入院騒ぎもようやく収束することになりました。今後は風呂にも入ってよいし、体調をうかがいながら運動をしてもよいとのこと。

今回はじめて詳しく患部の様子を知ることができましたが、虫垂と呼ばれる本来細い器官が長さ6センチ幅3センチくらいのどす黒い色に変色していて、周囲に張り付いており相当ひどい部類の虫垂炎だったとのこと。しばらく管が体内に入っていたのは腹膜炎の疑いがあったからということでした。幸い腹膜炎はたいしたことなくて、管からも数日できれいな体液が出てきました。患部の病理検査もしたそうですが、悪性のものとかではなく純粋な虫垂炎だったそうです。

回復が遅れたのは、切除あとが化膿してそこからの出血がとまらなかったので、一旦抜糸して傷口を開いてそのまま自然と閉じるのを待ったためでした。普段から赤血球や血小板が少ないので、普通の人よりも回復が遅れるのは仕方ないです。

まだ切除あとはつっぱったような痛みや違和感がありますが、これで一応全快ということになります。TwitterやFacebookでは、皆さんにいろいろとご心配をいただきありがとうございました。

以下はざっとした入院経過を書いておきます。
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入院してます

タグ付きの腕

思いもがけず、先月の26日の深夜から入院しています。

最初は食あたりか何かと思っていましたが、三日目にしてもなかなか高熱と腹痛が治まらないので救急外来にかかりました。ちょっとあごひげをかっこ良くはやしてメガネをかけた若い担当の内科の先生は「盲腸じゃないんですか?」と言って、自信あり気にニヤリとしました。盲腸とは不覚でしたが、これならたいしたことないなと思いました。ほら、薬で散らすとかよく聞くじゃないですか。

ところがその先生は否定します。ひとつに血小板の数値が低いこと。これは確かに普段から薬を飲んで落としてあるので、仕方ありません。もうひとつはすでに腹痛から三日経過し、他の臓器に癒着してしまっているかもしれないと。そこで手術を勧められました。

手術は仕方ないとしても、もう深夜だしどうせ翌日の日中だろうから家に一度帰りたいと言いましたがそれも許されませんでした。脱水がひどかったのであっという間に点滴をつけられ、腕にタグをつけられ、造影剤を入れたCTを撮られ、虫垂炎の診断が確定し、手術の同意書が回ってきました。

登場したのは四角いメガネをかけた眉毛のキリっとした消化器外科の先生で「いつ手術をするんですか」と聞くと「今からやります」と。「いやもう深夜も11時なんですが…」「それでもやります」とキリッと言われ、局部麻酔の説明やらなんやらを受けて、看護師さんに下の毛を剃られ、病衣を着せられてベッドに載せられて手術室に入りました。

その外科の先生ともう一人少し年配の先生と看護師さん二人で手術となりました。腰に麻酔を打たれて、足の感覚がなくなったところでお腹にメスが入りました。まあ最初はチクチクした感じがするだけだったのですが、なかなか患部が取れないとみえ、次第に胸のあたりがぐっと下に引っ張られる感じになって、気持ちが悪くなってきました。そのうちだんだん麻酔も切れてきたのか腹部も痛くなり、看護師さんに頭をなでられつつ「リラックスして」とは言われるのですが、ちょっと触られるだけで、ぐっとお腹に力が入ってしまう始末。とうとう最後には年配の先生が「全麻にしましょう」とおっしゃいました。ぼくも正直言って死ぬほど痛かったので「早く眠らせてください」とお願いしました。身長、体重を聞かれその場で答えて麻酔を決定するという超適当な全身麻酔だったとは思いますが、ゴムキャップをかぶせられてしばらくしたらまったく記憶がなくなりました。

次に「終わりましたよ」と呼びかけられて朦朧としながら「今何時ですか」と聞くと「2時半です」と誰かが答えてくれました。少しずつ意識が戻ってきて、ぼくは手術室を出されて病室にいて、顔には酸素マスクをかぶされて、胸には心電モニターをつけて、左腕には点滴が入って、右手には酸素モニターがつけられ、さらに尿管カテーテルを挿入されているという管だらけの姿でベッドの上にあったのでした。

気がつくと仕事があるからと帰した嫁さんがそばにいました。さっそくiPhoneをもらい「生還した」とつぶやきました。生還という言葉が実にしっくり来る感じでした。たかだか盲腸だったのですが、まったくあなどれない緊急入院劇ではありました。

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今回経過をできるだけ残しておこうと逐次twitterでつぶやいたところ、フォロワーの皆さんから多数のお見舞い、励ましのお言葉をいただき本当にありがとうございました。お陰さまで大いに力をいただき、入院生活も寂しくありませんでした。ブログでもお礼を申し上げておきます。