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「穏やかな死に医療はいらない」を読んで

いかにして死にゆくべきか。人生八十年としてもすでに半分以上が過ぎ去り、ましてや大病を抱える身となれば、ふとした瞬間にそのことに思い至ります。

今回、緩和ケア医である萬田緑平氏の「穏やかな死に医療はいらない」を読んで、その思いをいっそう強くしました。

この本には、ひとつの理想的な死に方が書かれています。それは終末期になった時、無駄な治療をやめて、飲食もできなければ無理をせず、痩せるに任せ、枯れるように死んでいくというもの。著者はこれを「老衰モード」と呼びます。

食欲が無いからといって栄養点滴や胃ろうなどをせず、血圧が低いからといって昇圧剤などを使用せず、自然のままに死んでいくほうが穏やかに死ねるそうです。

しかし現代はそのように自然に死ぬことが難しいことも確かです。ほとんどの方が病院で亡くなる現状がそれを物語っています。

病院で亡くなるということは、最後まで「死」に抗い、がんばって病と戦って、しかし刀折れ矢尽き死んでいくということです。病との戦いが、かえって患者本人の体力を奪い、苦痛をもたらしているのかもしれません。そこまで頑張り、苦痛に耐えて死ぬことが、本当に人生の幕引きにふさわしい死に様と言えるかといえば、さあどうでしょうか。

必ずいつか死ぬからには、苦しんで死ぬよりも、できる限り安楽で穏やかに死にたいものです。だとしたら、最後の際まで苦しい思いをして病と戦わなくてもいいのかもしれません。そのためには、戦いの場である病院から離れることも必要なのだと著者は言います。

著者は、かつて大学病院で外科医として数多くの患者さんを診療してきただけに、「病院医師にとって治療の目標は患者さんに良い人生を送ってもらうことではなく、少しでも長く生きさせること」という言葉には説得力があります。病院は死に場所としてふさわしいところではないのだと思いました。

ぼくも、やがて病によって生命を落とすことになるでしょう。もちろん、今すぐにどうこうなるわけではありません。それは数年後のことかもしれないし、あるいは数十年後のことかもしれないけれど、いつかは治療の甲斐がなくなり、終末期がやってくるでしょう。その時に、どのように最後の時を迎えようか、本書はそれを考えておくことの大切さを教えてくれました。

第2クール第14日 この入院中に読んだ本

病院で何をすることもないときは、ひたすら読書するに限ります。ここまで長く入院することになるとは思いませんでしたが、2月の入院前にKindle Paperwhite
を買い、大いに活用できているのは、ぼくにしては珍しく良い買い物をしたように思います。ぼくのKindleには、今50冊くらいの本が入っていて、つまり入院してから50冊くらい読んできたことになります。近年は書店に行っても、なかなか紙の本を買うことも少なかったのですが、Amazonでは結構本を買ってしまっていて自分でも少々驚いています。

入院中でもインターネットに繋いだ時にはAmazonに立ち寄ってはKindle本のコーナーを見ています。品揃えはまだまだ感がありますが、まだ読んでいない有名所が電子書籍になっていたりすると、値段も割安だったりしてついついポチってしまうんですよね。そうすると、あっという間に手元のKndleに本が転送されて読めるようになっているのです。

この入院ではぜひとも読みたいと思って吉川英治三国志を買いました。ぼくが買ったのはお馴染みの講談社版で、文庫本にして8冊分が合本になって950円。安いこともあるし、それだけの本があっさりKindleの中に入って読めるのです。今回入院してから読み始めましたが、あっという間に読み終えました。吉川英治はちょうど著作権が切れたので、今後続々と青空文庫などにも収録されていくでしょう。長編も多いので楽しみでもあります。

あとは近藤史恵サクリファイスも前々から読みたいと思っていたのをセールで買ったのですが、面白かった。自転車ロードレースのあの独特の駆け引き、エースとアシストの役割分担など素人目にはなかなかわかりにくいものですが、そこらへんは丁寧に書いてあって、わかりやすいです。エースである石尾のあまりのストイックさに、そんなことあるわけないだろうと思いつつも、読後は爽やかなものが残りました。

クリストファー・マクドゥーガルBORN TO RUNも紙の本に比べると圧倒的に安いので買っちゃいました。著者がランニングをするとなぜ故障するのかということを出発点として、伝説の走る民族タラウマラ族にたどり着き、彼らと著者をつなぐ「白馬」と呼ばれる男との出会いや彼らとの感動的なレースを書いたものですが、途中で人間は走るために進化してきたことや、最高のランニングシューズが故障を引き起こす最大の原因であることなどを解き明かしていきます。ぼくが今こういう状態だからか、文中のとある博士の弁が印象に残りました。

西洋における主な死因−−心臓病、脳卒中、糖尿病、鬱病、高血圧症、十数種類の癌−−のほとんどを、われわれの祖先は知らなかった。医学もなかったが、ひとつ特効薬があった−−(略)「ごく単純なことです」と博士は言った。「脚を動かせばいい。走るために生まれたと思わないとしたら、あなたは歴史を否定しているだけではすまない。あなたという人間を否定しているのです」

とてもウルトラマラソンには挑戦できないけれども、退院したらまた身体を動かすことをはじめたいと思いました。

夏目漱石「思い出すことなど」

夏目漱石は1910年に療養先の修善寺で大吐血をして、危篤となりました。しかし、その時漱石は自分が30分の間人事不省に陥ったことを全く理解していませんでした。その時のことは「思い出すことなど」に詳しく書いてあります。

強いて寝返りを右に打とうとした余と、枕元の金盥に鮮血を認めた余とは、一分の隙もなく連続しているとのみ信じていた。その間には一本の髪毛を挟む余地のないまでに、自覚が働いて来たとのみ心得ていた。ほど経て妻から、そうじゃありません、あの時三十分ばかりは死んでいらしったのですと聞いた折は全く驚いた。

この項を最初に読んだ若い時には、そんなものかなという思いしかしませんでしたが、今では漱石の書いたことがすっかりよくわかるような気がします。

今から2年前虫垂炎で入院をしました。当初は局部麻酔で患部を摘出するはずでしたが、かなり癒着していたためになかなか摘出できず、そのうち麻酔が切れてきたため、全身麻酔に切り替えて手術をしてもらいました。

その全身麻酔の経験が、漱石が書いたこととほとんど変わらぬものだということにぼくはいささか衝撃をうけたのでした。

マスクをかぶされて意識がなくなった次の瞬間に、ぼくは種々の管に繋がれてベッドの上にあったのでした。2時間ほど経っていたのですが、僕の中ではそれは完全に連続した時間であったのです。

それは睡眠とは全然違うものです。麻酔されていた2時間の間は自分の中では完全なる「無」でした。なにもない。遠くに声が聞こえるとか、魂が離れて自分を見ているとか、そんなものもない。麻酔から覚めるときも、ああ帰ってこれそうだとか、音が聞こえてきたとかそんなこともない。自分の中では完全に連続した時間なのに、次の瞬間には様子もなにもかもが変わっていて、時間だけが過ぎていたのです。

麻酔から覚めて帰ってきたからこそ思うのですが、あの完全なる「無」こそが、いわゆる「死」ではないかということに思い至ると、なんともいえない愕然とした心持ちになるのです。それは恐怖とも違うし、安堵とも違うし、何しろ意識も何もない完全なる「無」なわけですからどうとも説明のしようがない。ただ、今生きているからこそ、当時を振り返れば、ゾッとするのです。

ぼくなぞはそれだけの表現しかできないのですが、漱石はそれを丁寧に描写して後世に残しうるのだから、さすがは文豪のなせる業に驚嘆するのでした。

「思い出すことなど」は随筆ではありますが、漱石の書いた作品では一番印象深く、とりわけ病身になってからは繰り返し繰り返し読み返しています。

ものに魂が宿る

小商いをやっていると日々たくさんのお金を取り扱います。もっともそれらの大半は、経費や仕入費用となってまた手元から去っていくわけですが。

これらのお札や小銭をみていると「このお金はどんな人の手に渡ってきたのだろうか」とふと思うことがあります。今支払ってくれた人、その人も何かのお釣りでその千円札をもらったのかも知れない。

ギザギザのついた十円玉はすでに発行されてから半世紀以上経たものです。何百人いや何千、何万もの人たちの手を渡ってここにあるのかもしれない。そんなことを思うのです。
その十円玉を公衆電話に積み上げて恋人に電話をしたのかもしれません。お小遣いの中から駄菓子を買ったのかもしれません。たったひとつの十円玉にはいろんな人のドラマがつまっているような気がします。

岡本綺堂は修善寺の宿で火鉢の灰に人の思いを読み取りました。

 修禅寺では夜の九時頃にも鐘を撞く。
 それに注意するのはおそらく一山の僧たちだけで、町の人々の上にはなんの交渉もないらしい。しかし湯治客のうちにも、町の人のうちにも、いろいろの思いをかかえてこの鐘の声を聴いているのもあろう。現にわたしが今泊まっている此の部屋だけでも、新築以来、何百人あるいは何千人の客が泊まって、わたしが今坐っているこの火鉢のまえで、いろいろの人がいろいろの思いでこの鐘を聴いたであろう。わたしが今無心に掻きまわしている古い灰の上にも、やるせない女の悲しい涙のあとが残っているかも知れない。温泉場に来ているからと云って、みんなのんきな保養客ばかりではない。この古い火鉢の灰にもいろいろの苦しい悲しい人間の魂がこもっているのかと思うと、わたしはその灰をじっと見つめているのに堪えられないように思うこともある。(綺堂むかし語り)

長く使うものには魂が宿るのかもしれません。今はどんどんものを消費して捨ててしまう世の中です。ものに魂が宿るヒマもないのかもしれません。