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三瓶温泉「鶴の湯」


今からもう30年近くも昔になりますか、高校生の時にまあどんな経緯だったか女子に誘われてJRCという、超マイナーなクラブに入っていました。JRCとは青少年赤十字のことで、いろいろボランティアとかやるんですな。当然部員は女の子ばかりで男子はぼくだけという、今から考えればたいへん恵まれた環境でしたが、当時はなんとなく恥ずかしくてコソコソしていました。ああもったいない。

で、そのトレセンが三瓶山であるというので参加したことがあるんです。これは県下のJRCに参加している子供たちが合宿をして、赤十字の理念を研修するというわけです。まあ女の子が多いわけですが、ポツポツと男の子もいました。

今となってはすっかりその研修内容やらは覚えてもいないんですが、ただ強烈に覚えているのは三瓶の温泉のことです。せっかくだから温泉に浸かれということで、地元の浴場の入浴券をもらってトレセンの間、その温泉に入ったんですよ。

本当に小さな公衆浴場だったのですが、5、6人も入ればいっぱいになるような小さな浴槽に、すごい量のお湯が掛け流しで流れ込んでいて、お湯も赤茶けたにごり湯なんです。浴槽もそのまわりの床もそのお湯の色に染められて変色していて、こんな温泉もあるのかとびっくりしたのでした。時間帯もあるのでしょうが、湯船は独占できるし、ずいぶん堪能したことを覚えています。

先日、子供たちと一緒にサヒメルに行った帰り、ふとそんなことを思い出して、行って見ることにしました。

その名は志学温泉。サヒメルは三瓶の北側ですから、周回道路を回って志学まできました。案内表示に沿って街中に入って行くと、道路沿いに「鶴の湯」という看板を出した浴場がありました。ここだったかなあ、まあいいや入ってみようということで車を止めて訪ねてみました。

店の入り口には手湯と称して石の器が出してあって、そこに滔々と温泉湯が注がれています。そこからあふれた湯は側溝を通り、溝へと落ちていくのですが、三瓶温泉特有の赤茶けた色が染み付いていました。のれんをくぐると右手に自動券売機があって、これは時代の趨勢というものでありましょう。大人300円。以前番台だったところに体躯の良いおじさんが扇風機に座りながら「いらっしゃい」と声をかけてくれまして、そこに入浴券を入れる箱があって、さきほど買った券を入れるのです。

狭い脱衣所は、ところどころ扉の壊れているところもあるけれど鍵付きの木製ロッカーがあり、引き戸をひけば浴場になるのですが、夏場ということもあって引き戸は開けっ放し。浴場の窓も開けっ放しであります。

浴場の真ん中には10人はとても入らないような大きさの長四角い浴槽があって、満々と赤茶けた湯があふれています。ぼくが昔行ったところは円形の浴槽だったので、ああここではなかったのだとその時わかりました。浴槽を取り囲むように洗い場があって、ここは水道の蛇口のみ。床も浴槽も茶色に染まっています。

右手の奥には、壺があってそこに湯がそそいでいます。いや、そそいでいるなどという優しい言葉は間違いで、直径5センチもあろうかというパイプからどうどうと音を立てて湯が流れ込んでいるのです。これをかけ湯に使えとのことでした。湯量はたいへん豊富なようです。

湯に浸かると夏場にはちょうどいいほどのぬるい湯です。子供たちは色のついたお湯に大喜びで、やめろという声も聞かずにもぐったり、泳いだりおおはしゃぎでした。先客のおじさんは、ぼくが子供らを叱っても「まあまあ子どもはうれしいもんだ」と気にする素振りもなくほっとしました。しばらく浸かっていると、あとから二人三人とお客さんがやってきて狭い浴場はいっそう狭くなりました。若い旅の人だと思いますが、お風呂に入ろうとして滑って前のめりに浴槽に突っ込んでしまい、それを地元のおじさんが「ここは足元がみえないからな、気をつけないといけない」と笑ったりして、なかなか和やかな入浴になりました。

久しぶりに三瓶温泉を堪能しました。長男は少しアレルギーでいつも肘のあたりを掻いているのですが、温泉に入ったあとは「痒いのがなくなった」と喜んでいました。温泉地に最近は効能が書かれていないのですが、この温泉は塩化物泉で皮膚病などにも効果があるようです。

あとから調べて分かったのですが、ぼくが高校生の頃行ったのは亀の湯のようで、今も営業しているそうです。志学はすっかり寂れた街で、温泉街らしいという風情もありませんが、なぜだかほっとする浴場で、また機会があれば今度は亀の湯にも訪ねてみたいと思いました。


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卒園式

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線路沿いにある倉庫だか住まいだかわからないような小さな家に住んでいて、そこにあった白黒テレビで「てなもんや三度笠」を見た。それがぼくの一番古い記憶です。Wikipediaによれば放送は1968年までの放送だったので、2歳の時の記憶でしょうか。そんなに小さかったかしらという思いもしますが、住んでいる年代は一致しているようです。

しかし、小さい頃の記憶というのは断片的です。次の記憶は保育園で鯉のぼりを作ったこと。幼稚園でもほとんど記憶にありません。卒園するようになって、ぼくだけが違う小学校に行くことになり、がらんとした教室がとても寂しかったこと。幼稚園の先生が大好きで、その先生とお別れするのが悲しくて泣いたことを覚えているばかりです。小学校に行くようになってその先生のお宅へ訪ねていったこともあるから、そういうことは覚えているのかもしれません。

下の子は昨日、卒園式を迎えました。入園した時にはまだおむつもとれていなかったのに、今日はしっかりと返事をして修了証書を受け取るその姿を見るのは、親として大変感慨深いものがあります。それは、携わってくれた先生も同じでしょう。

担任の先生は4年前に実習生としてこられて、正式な教員となり受け持ったクラスのはじめての卒園でしたし、その感慨もひとしおだったのでありましょう。子どもの名前を読み上げる時、感極まって言葉を継ぐことができなかった姿もまた涙を誘うのでした。

一方で子供たちはハキハキと受け答えをしていました。三学期に入って発表会が終わってからはずっと卒園式の練習をしてきたのだから、それをきちんとこなすことに全力を尽くしているのでしょう。そして、彼らには今までの思い出よりも大きな未来が待っているのですもの。感傷に浸るよりも希望の方が大きいのですもの。

自分の小さい頃の記憶の曖昧さを思えば、うちの子供たちが大きくなった時に、この日を覚えているかどうかも定かではないのだろうと思います。だから、父ちゃんは、若くても優しくて全力で向き合ってくれた先生のことや、一緒に遊んでくれた友達のことや、芝生のグラウンドで自転車に乗れたことや、がんばって跳び箱を8段飛んだことを覚えておこうと思います。

足掛け5年にわたったぼくらの子育て幼稚園編もこれで終わりました。小学校にあがればあがったで、上の子は課題にぶちあたっていますし、これからも色々あるのでしょうが、次の6年もあっという間なのかもしれません。

ランプのあかり


部屋を暗くして、灯油ランプに火をつけました。嫁さんが独身時代に北海道旅行で買ったという、北一硝子の灯油ランプ。ほやがガラスでできているのはもちろん、灯油を入れるタンク部分もガラスでできていて、ほんのり赤い色がついています。

ランプは赤と青と二対あって大事に使っていたんですが、先日青いランプのほやにヒビが入ってしまって、いまはひとつきりです。

このランプ、長々と使ってきました。昔喫茶店をやっていたときに、窓辺に飾ってアクセントにしていました。夜はもちろん火をつけて。ゆらゆらとした炎がなかなかいい感じだったんですよ。

炎ってのは不思議なもので、風がなくても微妙に揺れているんです。そのゆらぎは決して同じパターンとかじゃなくて、見飽きることがありません。いや、いつも見入ってしまっています。そのとき、目は炎に釘付けになっているのに、頭の中は炎とは別のところに飛んでいくのがまた不思議なんです。

いろんなことを思い出すんです。嫁さんが自慢気にランプを見せてくれたこと。喫茶店をやっていたときのこと。別の事業をやるんで、喫茶店を嫁さん一人でやらせて苦労させたこと。長い間できなかった子どもが、ひょっこりできた時のこと。出産の時、医者がかけもちで見てたので産室で嫁さんの下っ腹を一人で支えてたこととか。次の子どもは流産しそうで、泣きながら電話してきたこと。嫁さんの入院中、上の子のご飯を作ってやったこととか。ほかにも色々と。

あっという間のことだったのに、気がついたら結婚してからもう15年にもなるんですよね。人生の三分の一をこのランプと、嫁さんと過ごしてきたんですね。いろいろ悩んだり苦しんだときもあったけど、振り返ればあっという間です。

いまね、やっぱり苦しくて辛いけれども、これまでのことを考えたら、何の根拠もないんだけど、この先もなんとかなるんじゃないかって思うんですよ。

気がつけば、今の時代はすべて人工的な明かりばかり。夜でもはっきりとくっきりとした世界。あまりにすべてを照らすので、その場にあるものしか見えなくなります。ランプの炎は暗くて、ゆらいで、すべてを照らすわけじゃない。でも、炎のまわりにはいろんなものが見えてくるような気がします。

たまには、ロウソクやランプの炎を見つめてみると、また気持ちが違ってくるかもしれません。

クラシック音楽との出会い

小学生の頃から音楽が苦手でした。中学入試のための模擬テストで音楽が全問不正解だったこともあります。さすがに音楽の先生からあきれられ、名前だけ書いてあったので1点だけもらったことがあります。

からっきしの知識だったぼくは、あるときからクラシック音楽にのめり込みました。

それはまだ大学生の頃、なけなしのお金をはたいて中古のPC9801Uを買いました。3.5インチのFDD搭載ということでなかなか時代を読んでいた機械だったわけですが、当時は5インチのFDが主流で98シリーズしては安価だったんですよね。動かないソフトも多かったですが。

何を思ったかこのコンピュータは音が鳴らせるということで、さっそくそれ用のソフトを買って、音符を打ち込むわけです。FM音源で最大6和音だったか3和音だったかしか出せなかったのですが、それまでビープ音しか出せなかったコンピュータとは大違いの音の広がりが楽しめます。それで音符を打ち込んだヴィヴァルディの四季。それぞれの楽器が主題を持って演奏していることに初めて気づいて感嘆しました。それがクラシック音楽との出会いでした。

当時はLPからCDに主流が変わる時代。LPではそれなりの演奏装置が必要だったのが、CDならば超高音質をプレイヤー一台で聴けるというわけで、安価な、といっても当時5万円くらいしたCDプレイヤーを買い、CBSソニーから出ていたユージン・オーマンディ指揮アイザック・スターンバイオリンのやつを買って、ヘッドフォンで何度も聴いたもんです。

ぼくはそれから狂ったようにクラシックCDを集め始めました。レコ芸とかいう雑誌を買って、当てにもならぬCD評をみながらあれが聴きたいこれが聴きたいと。金もないくせに、食べるものを惜しんでもCDを買いました。当時池袋のWAVEは確かビルがまるまるCDショップで、毎日のように通ってました。国内盤が3千円とかしていたその頃、外盤だと千円程度で買え、好んで外盤を買いました。バロックから近代まで有名処の曲はほとんど買ったように思います。本当にあの当時はどうかしていたとしか思えません。

ダメ学生でした。たいして学校にも行かず、日中もぼんやりとCDを聴きながらひたすらぼろアパートに引きこもっていました。

とてもよく晴れた穏やかな日に、アパートの窓を開けると、忙しそうに出かける人々がいて、自分のふがいなさ、屈辱感の背後で流れていたマーラーの4番。最終楽章の天使のようなソプラノに涙したことは今でも思い出します。

クラシック音楽はぼくにとって、都会の孤独を癒すたったひとつのよすがだったように思います。

あれからもう20年以上が経ち、いつの間にかCDの収集熱は冷めてしまいました。あの当時買ったCDはコンピュータの中に入れてありますが最近あまり聴かないなあ。ほとんどが80年代以前の録音で、当時積極的にデジタル化していたグラモフォンレーベルが幅を効かせています。演奏家はカラヤン、ベーム、バーンスタイン、ゼルキン、グールド…。偏ってますね。

ラジオなどで耳に覚えのある旋律が流れると、あの当時を懐かしく、ちょっぴりほろ苦く思い出します。

東京の物乞い

小学校1年生の確か冬休みのこと。ぼくは一人でブルートレイン出雲に乗って東京に行きました。初めての一人旅、といっても、東京駅にはおじさん、おばさんが待っていてくれたのでたいしたことはないのです。三段寝台の一番上がぼくの席で、相席二人は大学生風の女の人でずいぶん優しくされた思いがあります。

東京で生まれましたが、2年も経たずに松江に来ていたので、それが初めての東京との邂逅でした。今ではもう記憶も定かでないのですが、赤羽に住んでいるおばさんに連れられて東京タワーに登ったり、渋谷のプラネタリウムを見たりしたことは覚えています。そうそう渋谷ではプラネタリウムを見たあとに、やたら高級なレストランみたいな所に連れていってもらって、訳のわからない食事をするのが嫌でカレーライスが食べたいとおばさんを困らせたりもしました。

上野動物園にも行きました。ちょうどパンダのランラン・カンカンがはじめて来日したときで、パンダ舎は大変な行列で、一時間くらい待ってようやくたどり着きました。係の人が「停まらないでください」と叫ぶ中で見たパンダは奥の方で丸まって寝ていたのでいったい何が何だかわからなかっただけでした。

それよりも一番印象に残ったのは、上野公園の坂をあがる途中に何人もの物乞いの人がいることでした。もう中年のその人たちは手がなかったり足がなかったりで、包帯でぐるぐる巻きにしてカーキ色の服を着て、ハーモニカを吹いている人もいました。そんな人たちが東京にはごろごろいました。

まるっきり彼らが戦争の犠牲者ということはありますまいが、戦争の名残がまだ残っていた時代でした。

最近その人たちのことをふと思い出すことがあります。なぜ思い出すのだろう、ずっと考えていましたが、ひょっとしたら、自分が当時物乞いをやっていた人たちの年齢に近づいたから、なのかもしれません。

当時戦争が終わってから27年経っていました。小さい頃のぼくには、戦争はまるっきり関係ない昔の出来事でした。しかし彼らにとっては戦争はリアルに体験し、まだ心の中に残っている出来事だったのでしょう。それを想像できるだけの年齢をぼくも重ねてきたということなのでしょう。

ぼくらの世代には昭和という残像がまだ残っているのと同様に、彼らには戦争という残像が残っていたのでしょう。もうおおかた彼らもこの世にはおりますまい。遠い昔のお話しです。