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名も知らぬモンブラン万年筆とセーラーのブルーブラックインク

モンブラン#310
万年筆でノートに日々の記録を取るようになってから、もう数年になります。その間、家にある何本かの万年筆に、あれこれインクを入れ替えたりして使ってきましたが、だんだん自分の定番の組み合わせというのができあがってきました。

今、その書き心地の良さで気に入っているのは、家探しをして見つかったモンブランの赤い万年筆。

この万年筆は、買った覚えもなくもらった覚えもないけれども、なぜか家の引き出しにあったものです。型番をネットで調べると、どうやら#310というようです。モンブランといえば、高級万年筆というイメージですが、この#310は、ペン先は金ではないし、キャップは嵌合式だし、インクはカートリッジインク対応のいたって普通の万年筆です。

けれどもこのペンは、ぼくにはとてもあっているようです。ペン先が少し下に向いているせいか、狙ったところにペンを運べる気がします。また、スチール製のペン先でありながら柔らかさもあり、字の太さも細すぎず太すぎずちょうどいいようです。

このペンにセーラーのブルーブラックインクを入れて使っています。

他社のインクを使うには、コンバーターというインクカートリッジの代わりになる道具を使って、ボトルからインクを吸い上げて使います。この万年筆には、ペリカン社製のコンバーターがうまくハマりました。

セーラーのブルーブラックは、他社のブルーブラックに比べると非常に地味な色で、華やかさみたいなのがありません。けれども、このインクはとても出が良いです。なかなかインクの出が渋い万年筆に、このインクを入れると案外すんなり書けるようになったりします。

このペンとインクの組み合わせが実に良いのです。ほとんど力を入れずに、紙にインクを載せていくという感覚で書けます。万年筆は英語で ”fountain pen” といいますが、本当に泉のようにインクが溢れてくる感じです。

一方でこのインクは、すっと紙に染みこんで乾きが案外早いのも良いです。いつも使っているツバメノートではインクが裏に抜けることもありません。

気取って高い万年筆も買ってみましたが、結局この組み合わせに落ち着きました。いつのものだかわからない、それほど高くもないペンと、どこにでも売っているようなインクの組み合わせが、一番性に合っているのです。

もちろん、ぼくにぴったりだからといって、他の人にとって良いわけではありません。けれども、高価なペンが必ずしも書く人の手に合うとは限らないのは確かですし、そこが筆記具との出会いの面白いところです。世の中には理想の万年筆を求めて、何本も買い漁るマニアがいますが、その気持がわからないでもありません。

そう考えると、このペンと巡りあったのも何かの縁のように思います。ぼくは今日も地味な万年筆と地味なインクで、ノートを埋めています。

LAMY サファリを買っちゃった

LAMYサファリ スケルトン EF
貧乏暇無しではありますが、課題をほっとクリアしたら、なぜだか万年筆がほしくなりまして、気がついたらLAMYのサファリを手にしていました。

ドイツ製ですが、ペン先はスチール、軸はプラスティックと、万年筆の中ではそんなに高級品の部類ではありません。けれども、今まで真っ黒いエボナイトに金やら銀やら装飾された昔ながらの万年筆ばかり使っていたので、カジュアルなものが一本くらいあってもよかろうと思ったのです。

思い切って透明軸にもしてみました。もっともサファリは他の色もど派手な原色のカラーバリエーションなので、透明軸がかえってシックに見えたりしないでもありません。

また透明軸にするとインクの残量がよくわかるのもいいところです。LAMYのコンバーターは軸が赤く、透けて見えるそれがアクセントになってまたよさげではありませんか。

店頭でいろいろな太さのペン先で書いてみましたが、結局一番細いEFニブにしました。手持ちのペンと比較してみましたが、これでもセーラープロフィットのFと同じか、やや太めになります。ノートに高さ5mm程度の字を書くこともあるのですが、そうなるとLAMYのFでは少し太くて書きにくく感じました。
文字の比較
せっかくカジュアルな万年筆なのだからインクもカジュアルにすればいいのですが、そこは無難にパーカーのブルーブラックインクを入れました。とはいえ、普段よく使うペリカンのブルーブラックよりは明るい青です。

インクもドバドバ出る感じではありませんが、必要な量がしっかり出てくれて、ちょうどよいです。細いペン先ではありますが、カリカリと紙を削るような感じではありません。サラサラともいきませんが、適度な抵抗を感じつつも、インクを紙にのせる万年筆らしさも味わえます。

ダイヤのような形をした金ペンですと柔らかいのもあって、筆のように線を太くしたり細くしたりできるのですが、こういうペン先のかたちをしたスチールペンは、力の入れ具合による線の細い太いがあんまりでません。ある意味万年筆らしくないのですが、これはこれで、思った通りの字になりやすくぼくは好きですね。

作業服なんぞにクラシックな万年筆をさすのはちょっと気が引けますが、サファリになら違和感ありません。インクの残量もよくわかるし、実用品として、普段の記録にどんどん使っていきたいです。

日記を一年書くことができた

一年間に書きためたノート
小商いをしていると、最後の最後まで仕事なので、なかなか年末という気持ちになれませんが、一応今年最後のエントリーと言うことで、一年をふりかえったようなことを書きたいと思います。

今年の最初に紙のノートに記録をつけていこうというエントリーを書きました。

今年は生きた証を記録をしていこう | fumiton.nyanta.jp

それから一年が経過して、紙のノートに記録をつけることが、どうやら習慣化できたように思います。若い頃から日記の類いに何度も挑戦しては、しばらくすると放り出してしまった自分にしては、今年はよくも続けられたものだと思います。

継続できたのは、その都度書いていったから

先のエントリーを書いたときには、なにやら悲壮感もありましたが、実際のところ習慣化できたのは、いつもノートを手元に置いて、何かあればその都度ノートに書き付けるようにしたからだと思います。

基本的に見開き一ページを一日に使い、時系列に、あったことや感じたことを走り書きするだけです。誰と会った、どんな電話があった、子どもたちの様子はどうだった、どんな作業をした、そういうことを箇条書きでもいいのでその都度書き込んで一日が終わります。

従来の日記のように、一日を振り返ってその日の最後にまとめて書いていては、今回も途中で放り出していたことでしょう。

それだけのことでも、あとから見直すと、どんなことがあってどういう思いで過ごしていたかということがよみがえります。一年前のノートを時々めくったりすると、まだまだ病から癒えず悲壮感があったことなどがわかったりします。記憶の中でついこないだのことがずいぶん昔のことだったり、ずっと前だったと思っていたことが案外最近の出来事だったりすることを知ったりします。

途中で、日々の記録をデジタルにしようか迷ったこともありましたが、最終的には紙のノートに筆記をすることに落ち着いて、一年間で使ったノートは今のを含めて5冊になりました。

A5のツバメノートがちょうどいい

一番最初はノートカバーを買ったときについていた30ページのもの。次にツバメノートに変更して、二冊目は30枚の厚さ、三冊目は60枚、四冊目は100枚となり、今も100枚の厚さのノートを使っています。

ツバメノートは、万年筆で書いたときに裏写りせず、インクもにじまず、すっと紙に染みこんでいきます。ツバメノートに限らず、万年筆で書ける上等なノートはほかにもたくさんありますが、たいてい結構な値段がするものです。ツバメノートは、手ごろな価格で買えるのがよいので、使い続けています。

ノートの厚さは、毎日の使用量を考えると厚い方がいいかと思いましたが、100枚ものだとノートカバーに一冊しか収まらず、最初や最後のページの近くはやっぱり少し書きにくく、厚すぎたかなとも思わないでもありません。次からは60枚ものを2冊ノートカバーに入れようかなと思います。

ノートはA5サイズで、コクヨのSYSTEMICノートカバーに入れてあります。一般的なB5サイズのノートは選択肢も豊富ですが、持ち運びや、机の上を占有する面積を考えると少し大きいように感じています。また、見開き一ページが一日分という情報量は、自分の生活ペースからいって、ちょうどいいくらいです。B5だと広すぎるし、A6では狭すぎます。

小ぶりのボディバッグにノートとKindleかkoboかiPad miniを入れて、iPhoneを身につけて外出すれば、読んだり書いたり調べたりは一通りできます。このように常に手元にノートを置いておくと、なんとなく安心するようになりました。

紙のノートの効用

日記をデジタルで残すか、アナログで残すかというのは、ずいぶん迷っていましたが、こうして一年間続けて、古いノートをめくっていると、紙の記録というのもなかなかよいなとあらためて思いました。

デジタルでの記録はピンポイントでの検索が可能になります。キーワードを入れれば、即座に該当するものが現れます。いつどこで何をしていたか、きちんと入力さえしていればあとから調べるのは容易です。

紙のノートではそういうわけにはいきません。けれども、全体像を把握することは紙のノートの方が得意です。紙のノートに書かれているその日の文字の丁寧さ、間の取り方などを見ていると、その日の気分や、書かれていないことまで思い出すことができます。

デジタル記録をさかのぼってふりかえることは、ぼくはなかなかできませんが、紙ノートであればときどきぱらぱらとめくることがあります。

日記というのは、いつどこで何があったかその事実よりも、そのときどんな気持ちであったかというのを、自らふりかえるところに意味があるように思います。そのためには、ぼくの場合は、手書きの紙のノートの方があっているようです。

続けてみてはじめて、日記のおもしろさや大切さがようやくわかってきたようです。せっかく身についた習慣なので、来年も紙のノートに記録をとることを続けていきたいものです。

万年筆の魅力

万年筆のペン先
デジタル記録にこだわり、パソコンやスマートフォンでメモを取ることばかりだったのですが、去年あたりからノートにペンというアナログな手段で記録をとってきました。

A5サイズのツバメノートにノートカバーをつけて、万年筆でノートを取るのです。会議のメモはほとんどこのスタイルですし、雑然としたメモもとりあえずこれに記録しています。また折に触れ手紙やメッセージカードを、手書きで書くようになりました。

少し前まで日々の行動記録もノートに書いていましたが、こちらはデジタルの方に分があるように思い、今は最終的に日記アプリに落とし込んでいます。

さて、使う筆記具はたいてい万年筆です。なぜ万年筆か、ということは一度以前に書きました。

ペンと紙で書くこと | fumiton.nyanta.jp

しかしそれだけでなく万年筆という筆記具には人を引きつける魅力があるように思います。

万年筆を使うようになってから、そういえば昔もみたような気がするがと、家捜しをしてみると、結構何本も古い万年筆が見つかりました。

それらはたいてい、長いこと放置され、ペン先はインクがこびりつき、軸も傷やほこりだらけだったりしてそれはひどいものでした。けれども、何日も水に漬けてインク汚れを落とし、乾燥させてきれいに拭き上げ、メーカーのカートリッジを挿すと、また書けるようになるのです。

薄汚れて放置された、もう何十年も、それこそ半世紀にもならんとする昔の筆記具が、ふたたび生まれ変わり、また書けるようになる、ぼくはそのことに感動しました。30年40年経って今でも実用になる道具というのは、なかなかありません。数年で廃れるデジタル機器に囲まれた現代では、なおさら感慨深いものがあります。

誰が使ったのだろう、使ったとすればうちの親だったかもしれません。あるいは記憶に薄れているけれども子供の頃のぼくが、誰かにもらったものかもしれません。再びそれを今手にして文字を書いている。何かの縁がこのペンとあったのかもしれないと思うとワクワクしてきます。

さて、手入れをした万年筆にインクを入れてペンを走らせてみると、これが一つ一つ書き心地が全然違うのです。紙に当たる感触、インクの出方、文字の太さ、それらが一本一本違う。これがまた何とも興味深いのです。

ペン先の割方であったり、材質であったり、軸の太さだったり、インクの材料であったり、製造メーカーの方針であったり、それらが複雑に組み合わさってその万年筆の書き心地が決まるのだといいます。そして、一つの万年筆でも、長く使うとペン先がすり減って、書き手のクセを反映した、いわば手にあったペンになるそうです。

いろいろ調べていくと、世の中にはペン収集という趣味もあるということを知りました。まるで美術品かのような意匠で、何十万円もするものがあったりします。数量限定モデルなんてのもあります。ペン先を書く人の好みにあわせて加工してくれる専門家もいます。

そういうのを知ると、まだ書いたことがないペンが、どんな書き心地か体験したいと思う気持ちも出てきましょう。愛用の一本を見つけだして、ペン先を育てる楽しみもありましょう。スマートフォンで、モンスターをゲットしてそれを育てるゲームが流行っています。まだ見ぬモンスターに思いをはせ、気に入ったキャラを育てていく。万年筆収集も同じようなものかもしれません。

ぼくも最初は文字さえ書ければと思ってはいたのですが、いつの間にか万年筆の数が増えてきてしまいました。それにつれてインク瓶からインクを吸い上げて、いろんな色を楽しむようにもなりました。マニアにはほど遠いですが、万年筆の魅力にとりつかれつつあるようです。

今年は生きた証を記録をしていこう

年明けてずいぶん経ってしまいましたが、今年最初のエントリになります。

昨年は大病をして大荒れの一年だったので、今年はぜひとも大過なく過ごして行きたいのですが、こればかりは運命なのでどうなるかはわかりません。ただいろいろなことを、今まで以上に記録していきたいと思うようになりました。

先日一緒に寝ている子どもの胸に手を当てたのです。手のひらに感じる暖かさ、胸の鼓動。我が子が生きていることを手のひらに感じる、そのことがとほうもない幸せに感じました。けれども、それは本当に小さな幸せで、もう二度と見ることのない儚い夢のように思いました。

最近そうした刹那の感情が、とても貴重に思えて仕方ありません。なにせ先のことがわからないだけに、そういう気持ちになるのは仕方ないかなと思います。それでいて、その貴重な時間は、前よりもさらに速く過ぎ去って、慌ただしさの中に感情は流されていってしまいます。

時間の感覚が以前とはぜんぜん違うのです。すぐに肉体的に、あるいは精神的に疲れてしまうので、一日にできることが本当に少なくなってしまったせいもあるかもしれません。マルチタスクというものができないので、一つの仕事をようやっと終えて、次のことに取り掛かろうとするともう一日が終わっていたりします。

一日のうちにはそれなりのできごとがあって、その時に感じることもあるのに、それらはあっという間に過ぎていく時間に押し流されてしまう。残された時間はどれだけあるかわからないのに。

その焦りがあるのでしょう。一日のうちに起きたできごと、その時の気持ちを何でもいいので書き溜めておくことが必要だと思うようになりました。

今まではSNSをはじめ、日記アプリやカメラアプリを使って、デジタルで記録することにこだわっていましたが、昨年の終わりくらいからは紙のノートに万年筆で記録をするようになりました。

それは日記というものでもなく、今までSNSでつぶやいていたようなことをノートに書いていきます。いや、それよりも言葉の羅列であったり、図を書いたり、他人の目に触れない分、もっととりとめのない書き方をしています。そうして、白かったページが文字や図で埋まると、今日一日生きていたことが確かめられるようにも思うのです。今年はいわば生きた証のために、記録をとっていこうと思います。

ただ、そうしてノートに考えたことを、まとめることができれば本当は一番いいのですが、なかなかそれができないのがもどかしい。この文章だって本当は年始に書こうと下書きをはじめたのに、結局今頃書いているのですから。

ペンと紙で書くこと

メモパッドと万年筆
レターペンココイロで文字を書いた時の喜びについて前に書いたのですが、それ以来、文字を手書きすることが楽しくなってきました。

以前ならどうでもデジタルで記録することにこだわって、メモはiPhoneでというシーンが多かったのですが、最近はA6サイズのノートカバーにメモパッドを仕込んで、それに手書きでメモをとることも増えました。メモパッドは書き終えたら切り取って、それをiPhoneのスキャナアプリやScanSnapにかけてEvernoteに保存しています。そこんところだけはデジタルの要素を残しつつ。

手書きのメモをデジタル化しても、あとから検索するのもデジタルに比べて劣りますが、日付をもとにしたり、適当なキーワードを付け加えておけば、大丈夫かなとも思います。

不便さはあるものの、レイアウトが自由にできますし、筆跡からメモを取った時の気分なども思い出すことができるのは、手書きのメモならではの利点です。それに何より手で文字を書くことが楽しい。

筆記具もココイロの他に、万年筆も使うようになりました。手に優しい筆記具といえばやはり万年筆もあげられます。

若いころに、都会の文具屋さんで一丁前に試し書きをしながらペン先を選び、名前まで入れてもらった万年筆を買ったことがありました。その書き心地は大変よく、文字を書くことが楽しくて仕方なかったことが思い出されました。

さて、あの時に買った万年筆がどこかにあったはずだ、と今回だいぶ家捜しをしたのですが、どうしても見つかりません。本当にもったいないことをしてしまったものです。

そうなると、万年筆がどうしても欲しくなって、パイロットのカクノという安い万年筆を買ってきたり、家捜ししたときに見つけた、これは作ったのとは別物の、中古のセーラーの万年筆をきれいに洗って、お湯につけたりして、復活させて使うようになりました。

それらの経験はまた少しずつ書いていきたいですが、あらためて万年筆で書いた字はいいなあと思います。万年筆で書くと手に優しいのはもちろんですが、線の強弱やインクの濃淡によって、字に表情が出てくるように感じるところがいいのです。そこには、お定まりのPCフォントでは決して表せない、書き手のそれぞれの個性が現れ、そこに字が上手いとか下手とかを超えた、味わいというものが出てくるように思います。

あれほどデジタル人間だったのに、その変化には自分でも驚いています。でもなんかいいんですよ。紙にペンで書くことが。