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1年分の日記を1冊にしてよかった

日々の記録をノートに取るようになって数年が経ちました。当初はツバメノートを使っていましたが、今年はMDノートダイアリーにしてみました。A5サイズで一日一ページ、一年経つと一冊が埋まるようになっています。

普段はあまり気にしていませんでしたが、いよいよ12月も末になって、一年の記録が一冊に収まっているのを感じるとそれなりの感慨があります。

パラパラと読み返すと、その日にどんなことがあったか、何を感じていたか思い出します。余白にその日の大きなニュースを書いてる日があるのですが、そのニュースの日と自分の行動の記憶がかみ合わないことがあり、記憶というのはいかにアンバランスに配置されているか思い知らされます。

出来事の記録ばかりでなく、欄外には「頑張れ!」とか「面倒くさい」とか自分の気持ちが書いてあることがあり、あとで読み返すとそのような感情の吐露が、記憶を呼び覚ますトリガーになることがありました。

数ヶ月に一冊のペースだと、昔のノートを読み返すことをなかなかしませんでした。けれども一年一冊になると読み返しやすくなり、それがまた新しい記録へのモチベーションにもつながります。

あいかわらずデジタル記録かアナログ記録か迷っている自分がいますが、このような振り返り方ができるのはアナログ記録ならではのことで、これからもペンによる記録は続けていきたいと思います。

でもこのMDノートダイアリー、結構な値段がするんですよね。月間カレンダーが月曜始まりで気に入らないとか、デイリーの日付は入れておいてほしいとか、気になるところもありますが、インクがどっぷり出る万年筆で書いても裏抜けしない紙質は気に入っています。

そして、やはり一年一冊の感慨をもう一度味わいたいということでリピートしてしまいました。今日で2017年版を閉じ、明日からは同じMDノートダイアリー2018年版を使っていこうと思います。

日記を一年書くことができた

一年間に書きためたノート
小商いをしていると、最後の最後まで仕事なので、なかなか年末という気持ちになれませんが、一応今年最後のエントリーと言うことで、一年をふりかえったようなことを書きたいと思います。

今年の最初に紙のノートに記録をつけていこうというエントリーを書きました。

今年は生きた証を記録をしていこう | fumiton.nyanta.jp

それから一年が経過して、紙のノートに記録をつけることが、どうやら習慣化できたように思います。若い頃から日記の類いに何度も挑戦しては、しばらくすると放り出してしまった自分にしては、今年はよくも続けられたものだと思います。

継続できたのは、その都度書いていったから

先のエントリーを書いたときには、なにやら悲壮感もありましたが、実際のところ習慣化できたのは、いつもノートを手元に置いて、何かあればその都度ノートに書き付けるようにしたからだと思います。

基本的に見開き一ページを一日に使い、時系列に、あったことや感じたことを走り書きするだけです。誰と会った、どんな電話があった、子どもたちの様子はどうだった、どんな作業をした、そういうことを箇条書きでもいいのでその都度書き込んで一日が終わります。

従来の日記のように、一日を振り返ってその日の最後にまとめて書いていては、今回も途中で放り出していたことでしょう。

それだけのことでも、あとから見直すと、どんなことがあってどういう思いで過ごしていたかということがよみがえります。一年前のノートを時々めくったりすると、まだまだ病から癒えず悲壮感があったことなどがわかったりします。記憶の中でついこないだのことがずいぶん昔のことだったり、ずっと前だったと思っていたことが案外最近の出来事だったりすることを知ったりします。

途中で、日々の記録をデジタルにしようか迷ったこともありましたが、最終的には紙のノートに筆記をすることに落ち着いて、一年間で使ったノートは今のを含めて5冊になりました。

A5のツバメノートがちょうどいい

一番最初はノートカバーを買ったときについていた30ページのもの。次にツバメノートに変更して、二冊目は30枚の厚さ、三冊目は60枚、四冊目は100枚となり、今も100枚の厚さのノートを使っています。

ツバメノートは、万年筆で書いたときに裏写りせず、インクもにじまず、すっと紙に染みこんでいきます。ツバメノートに限らず、万年筆で書ける上等なノートはほかにもたくさんありますが、たいてい結構な値段がするものです。ツバメノートは、手ごろな価格で買えるのがよいので、使い続けています。

ノートの厚さは、毎日の使用量を考えると厚い方がいいかと思いましたが、100枚ものだとノートカバーに一冊しか収まらず、最初や最後のページの近くはやっぱり少し書きにくく、厚すぎたかなとも思わないでもありません。次からは60枚ものを2冊ノートカバーに入れようかなと思います。

ノートはA5サイズで、コクヨのSYSTEMICノートカバーに入れてあります。一般的なB5サイズのノートは選択肢も豊富ですが、持ち運びや、机の上を占有する面積を考えると少し大きいように感じています。また、見開き一ページが一日分という情報量は、自分の生活ペースからいって、ちょうどいいくらいです。B5だと広すぎるし、A6では狭すぎます。

小ぶりのボディバッグにノートとKindleかkoboかiPad miniを入れて、iPhoneを身につけて外出すれば、読んだり書いたり調べたりは一通りできます。このように常に手元にノートを置いておくと、なんとなく安心するようになりました。

紙のノートの効用

日記をデジタルで残すか、アナログで残すかというのは、ずいぶん迷っていましたが、こうして一年間続けて、古いノートをめくっていると、紙の記録というのもなかなかよいなとあらためて思いました。

デジタルでの記録はピンポイントでの検索が可能になります。キーワードを入れれば、即座に該当するものが現れます。いつどこで何をしていたか、きちんと入力さえしていればあとから調べるのは容易です。

紙のノートではそういうわけにはいきません。けれども、全体像を把握することは紙のノートの方が得意です。紙のノートに書かれているその日の文字の丁寧さ、間の取り方などを見ていると、その日の気分や、書かれていないことまで思い出すことができます。

デジタル記録をさかのぼってふりかえることは、ぼくはなかなかできませんが、紙ノートであればときどきぱらぱらとめくることがあります。

日記というのは、いつどこで何があったかその事実よりも、そのときどんな気持ちであったかというのを、自らふりかえるところに意味があるように思います。そのためには、ぼくの場合は、手書きの紙のノートの方があっているようです。

続けてみてはじめて、日記のおもしろさや大切さがようやくわかってきたようです。せっかく身についた習慣なので、来年も紙のノートに記録をとることを続けていきたいものです。

今年は生きた証を記録をしていこう

年明けてずいぶん経ってしまいましたが、今年最初のエントリになります。

昨年は大病をして大荒れの一年だったので、今年はぜひとも大過なく過ごして行きたいのですが、こればかりは運命なのでどうなるかはわかりません。ただいろいろなことを、今まで以上に記録していきたいと思うようになりました。

先日一緒に寝ている子どもの胸に手を当てたのです。手のひらに感じる暖かさ、胸の鼓動。我が子が生きていることを手のひらに感じる、そのことがとほうもない幸せに感じました。けれども、それは本当に小さな幸せで、もう二度と見ることのない儚い夢のように思いました。

最近そうした刹那の感情が、とても貴重に思えて仕方ありません。なにせ先のことがわからないだけに、そういう気持ちになるのは仕方ないかなと思います。それでいて、その貴重な時間は、前よりもさらに速く過ぎ去って、慌ただしさの中に感情は流されていってしまいます。

時間の感覚が以前とはぜんぜん違うのです。すぐに肉体的に、あるいは精神的に疲れてしまうので、一日にできることが本当に少なくなってしまったせいもあるかもしれません。マルチタスクというものができないので、一つの仕事をようやっと終えて、次のことに取り掛かろうとするともう一日が終わっていたりします。

一日のうちにはそれなりのできごとがあって、その時に感じることもあるのに、それらはあっという間に過ぎていく時間に押し流されてしまう。残された時間はどれだけあるかわからないのに。

その焦りがあるのでしょう。一日のうちに起きたできごと、その時の気持ちを何でもいいので書き溜めておくことが必要だと思うようになりました。

今まではSNSをはじめ、日記アプリやカメラアプリを使って、デジタルで記録することにこだわっていましたが、昨年の終わりくらいからは紙のノートに万年筆で記録をするようになりました。

それは日記というものでもなく、今までSNSでつぶやいていたようなことをノートに書いていきます。いや、それよりも言葉の羅列であったり、図を書いたり、他人の目に触れない分、もっととりとめのない書き方をしています。そうして、白かったページが文字や図で埋まると、今日一日生きていたことが確かめられるようにも思うのです。今年はいわば生きた証のために、記録をとっていこうと思います。

ただ、そうしてノートに考えたことを、まとめることができれば本当は一番いいのですが、なかなかそれができないのがもどかしい。この文章だって本当は年始に書こうと下書きをはじめたのに、結局今頃書いているのですから。