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膀胱がん手術から5年

このところの忙しさもあって、しばらくこのブログから遠ざかっていましたが、この4月にがんによる膀胱全摘手術を受けてから丸5年になりました。だからどうしたという話ではありますが、5年というのは一応節目なんですね。

がんではよく5年生存率ということをいいます。治療を行って5年後にどれくらいの割合で生きていられるかを示す統計資料で、多くの患者さんがおそらくこの数値に注目することになります。

ぼくの場合は膀胱がんステージⅢ。全国がんセンター協議会の統計によれば、5年生存率は55.4%。この診断を受けたときに、ぼくもこのページを見て「ああ、5年後に生き残るかどうかは半々だな…」などということを考え、そして5年たった今「ああ、なんとか生き残る方に入ったな」などと考えるわけです。

ただ以前も書いたことがありますが、5年が経過したからと言って、完治したわけではありません。生存曲線は緩やかになるとは言え、依然再発や転移の可能性は残っています。最近では、10年生存率なども発表されていますが、それによれば膀胱がんステージⅢの生存率は33.3%となっています。5年という数字が決して安心できるものではないことがわかります。

けれども、5年、10年という期間同様に生存率にも惑わされてはいけません。どんな病気でもそうですが、同じような治療をしても、その経過は人によって大きく違うものです。生存率が高いからといって、それは自分が生存できることを保証するものではありませんし、生存率が低いからといって、必ず死ぬと決まったものでもありません。

そして、治療方法は日進月歩の勢いで進化しています。

20年以上前、ぼくが慢性骨髄性白血病にかかったときは、いずれ急性転化して死ぬるのは当たり前の運命と考えられていましたが、劇的な効果のある分子標的薬が開発された今では、慢性骨髄性白血病で亡くなる人はほとんどいなくなりました。

今統計に表れている生存率は過去のもので、今現在の治療を受けている人の5年生存率は未来でないとわかりません。

様々な数字がぼくを喜ばせたり、悲しませたりするわけですが、そこは意識して冷静に考えることが必要だと思っています。ぼくが数字をこねくり回してどんなに深く考えても、自分の寿命をコントロールできるわけはありません。自分の運命に一喜一憂するよりは、日々起こる様々な喜びや悲しみをしっかりと味わうことが大切だと考えています。

CT検査を受け続ける意味があるのか

先日、CTを受けました。膀胱がんによる膀胱手術をしてから半年に一度受けている検査で、9回目になります。何回も受けているわけですが、検査が近づけばそれなりに緊張をします。検査にかかる時間はわずかなものですし、つらいものでもありません。けれども、その日が運命の分岐点になるかもしれない、と思う気持ちが緊張感を生むのです。CTによる画像診断が、再発や転移を発見する手段になるのです。

一般に5年がたてば、一安心と言われます。どんな病気でもその病気由来による生存率は1~2年で急速に落ちますが、その後は緩やかになり、5年たてばだいたい落ち着いてくるものです。ぼくももうすぐ5年であり、一応大丈夫な方に入りそうではあります。

けれども、再発、転移のリスクというのはゼロにはならないことは間違いありません。生存率曲線は5年たったら横ばいになるものではなく、緩やかになるだけのことです。膀胱がんの転移は、尿路や腎臓にとどまらず、リンパ節や肺にまで飛ぶ可能性があります。それを発見するためには、これからもCTによる画像診断が必要なのだろうと思います。

しかし、とふと思いました。

もし転移を発見したとして、それでどうなるのかということです。最初のがんであるならば、早期発見は意味があります。しかしぼくの場合、例えば肺に転移をしていたのが発見されたならば、それはすでに全身にがんが散っているということです。その場合、相当に治療の選択肢は限られてくることでしょう。CTで検査をしようがしまいが、結果は同じということもあるわけです。

だとしたら、CTで検査をする意味はあるのだろうか、とも思わないでもないのです。

それでも。

ぼくはこれからも検査を受けようと思います。半年ごとに感じる緊張感というものは、自分の人生にとって必要なものだと思うからです。本来なら、その日その日で人生が終わっても悔いのないように生きるのが理想ではあるのですが、そんな悟りはとても開けません。

しかし半年ごとに運命の関門が待ち受けていると、その時だけは、これまでの人生を振り返り、終わりの時を想像することができます。そして日々を大切に生きることを思い起こさせてくれるのです。外からの刺激がなければできないのが情けないのですが、CT検査は自分を律するための良い機会になっているのです。

次の検査は来年4月。手術から5年目になります。

3ヶ月ぶりの診察で降圧剤の世話になることになった

昨年の診察で高血圧を指摘されてから、運動すればすぐ下がると高をくくり、定期的なウォーキングなどを心がけてきたのですが、これがなかなか下がりませんでした。平均すれば上が150程度、下が90程度なのですが、どうかすると上が170なんていうときもあって、自分でもやばいなあとは思います。

いっとき血圧がだいぶ下がって正常値になったことがあり、運動の成果かと思ったのですが、あとになって記録を見ると、下がっていたのは正月休みの時期で、仕事はやっていたもののなんとなく世間様ものんびりして忙しくなかった時期なのでした。

やはり血圧をあげているのは、運動不足もあるけれども、仕事のストレスや睡眠不足が一番の原因なのだろうと感じています。そしてそれはなかなか自己努力で解決できるものではありません。人員の補充を考えないといけないのですが、当世これがなかなか難問です。少し余裕のできる春までは、なんとか今のままで頑張るしかないようにも感じています。

グズグズしているうちに結局3ヶ月が経って診察日がやってきました。ぼくはおとなしく白旗をかかげ、血圧の薬を飲むことになりました。処方されたのはアムロジピンというごく一般的な高血圧の薬です。副作用もそれほどなく、ごく少量の服用からはじめることになったので、あんまり心配はないようです。

一方で貧血も進んでしまい、とうとうヘモグロビン濃度が10g/dlまで下がってきました。前回入院したときの経験からすると、10gを割るとちょっと動くと動悸が出るようになるし、9gを割るとかなり体を動かすのが面倒くさくなると思うので、これ以上は下がらないようにしなければなりません。

運動すると動悸がするけれども、血圧のためには運動をしないといけないわけで、まあ体と相談しながらぼちぼちやっていくしかありません。

白血病の方は完全寛解で治癒だし、がんの転移はないし、原発の病気は治ったのに、高血圧に貧血、アレルギーや原因不明の手の痛みなど他の不具合が続々で、なかなかうまくいかないものだなあと思います。それだけ年を取ってきたということなのでしょう。

人生の儚さについて

この数年、見知った人が病を得て鬼籍に入るのを次々と目の当たりにし、人生の儚さを感じます。

ぼくは若いときから病気持ちなので、それなりに知人が死んでいくのを目の当たりにしているのですが、若いときはこれほど「儚い」ということを感じておりませんでした。

若い頃に知り合った人たちは同じ病気の人が多かった。つまり同じ条件だったのです。当時の白血病は必ず最後は亡くなる病気であったので、あとに逝くか先に逝くかの違いはあっても、みんないずれは死ぬのだという思いだけでした。

けれども最近はそうではありません。ぼくよりも元気だった人が、ある日突然病となり、ほんのすこし闘病をしたと思ったら、亡くなってしまう。まだまだこれからという若さで亡くなってしまう。

その方々は、ぼくががんになって大手術をした数年前に、見舞いをくれたり、心配していただいたりした方々なのに、先に逝ってしまった。一方、心配や迷惑をおかけしたぼくは未だに生き残っているのです。

人の生き死には紙一重。健康そうに見えた人がこうして亡くなっていくならば、ぼくなど明日に人生が終わっても不思議ではありません。ならば、ぼくの人生とはなんであろうか、そんなことを考えます。

最近少し過労気味なのは違いありません。無理はしてはいけないとわかってはいるのですが、未明から夜まで仕事漬けの日々が続いています。会社を維持し、従業員と家族を養っていくためにはそうせざるをえないわけですが、ふと立ち止まればこの余裕のない暮らしに呪詛の一つも唱えたくなります。

けれども、人生の儚さに思い至るとき、ぼくは呪詛の言葉を飲み込みます。

日々の暮らしに汲々として、常に足らざるを覚え、あがきながら満足を得ることができず、不平を唱えながら死んでいくならば、その人生はあまりに虚しいのではないか。

なりたかった自分になれなかった過去を恨んでも仕方ない。今の暮らしの辛さを嘆いても仕方ない。あるかどうかわからない未来への不安で鬱屈するのも虚しい。だとしたら、今できることを精一杯やっていくことで、そのときそのときの喜びや、悲しみを味わうことこそが人生の充実というものではないだろうか。今はそう思います。

けれども、なかなか達観はできないものですから、今日そう思っても明日は日々の生活に恨みつらみをぶつけているかもしれません。それでも、人生の儚さというものは常に意識をしておきたいと思います。

生に執着し不安になった。死ぬと諦めれば不安は去った。

2013年4月4日。ぼくは一度死に、生まれ変わりました。

3年たった今でもそうだったのだと思っていますし、3年前の今日も「明日は死ぬのだ」と思っていました。そうなることは稀であるにしても、比喩でなく本当に死ぬこともあるだろうと覚悟をした日でもあります。

生まれ変わるために | Fumiton.nyanta.jp

自分なりに納得してあの投稿をしたのですが、そこに至るまで不安に押しつぶされそうな気持ちで過ごしていたことを今でも思い出します。

あの日は、本当によく晴れていて、病室の窓から見下ろす町並みがとても輝いて見えました。自分の心に渦巻くような不安とは本当に対照的な光景で、ものすごく印象に残っています。

このざわざわとした気持ちをどうすれば鎮めることができるだろうか、そんなことをひたすら考えていました。もし、ぼくに信仰があったら楽になっただろうかと思ったものです。

自分の力ではどうにも及ばない状況に追い込まれ追いつめられた心を、神や仏に預けることで、不安や怒りといった負の感情を癒やすことができたかもしれないと思いました。苦しみから自分を救い、心に平穏をもたらすことができるのならば「苦しい時の神頼み」は間違っているどころか、すばらしい人間の叡智なのではないかと思いました。

もっとも、神頼みを人間の叡智と言ってしまうところが、ぼくの信仰のない所以であります(信仰のある人にはさぞ傲岸不遜に映るかもしれません)。

ただ、信仰を持っていないものは、不安をひたすらに自分自身で受け止めなければならないことを痛感しました。今のこの不安は何からくるのであろうか、その原因を探り、それが解消するような、納得できる論理を自分だけで構築していかねばなりません。

ぼくが最終的にたどりついたのは、明日の手術がうまくいくかどうかわからないからこそ不安になるのだという結論でした。ならば、明日本当に死ぬとしたらどうだろう、自分にできることがあるだろうかと考えました。そうすると、ほとんど何もないことい気づいたのです。

それは、もう少し子供の成長が見たかったとか、金を残してやりたかったとか、いろいろ未練はあるんだけど、もう明日死ぬのだったら、今更どうしようもないわけです。さらに、手術中の事故で死ぬのなら、麻酔で眠って目が覚めないわけですから、たぶん痛みも苦しみもないでしょう。一番安楽に死ねるではないかと思いました。

まあ諦めたといえばそうなのかもしれません。でもそれですっと気持ちが楽になったのでした。

唯一最後に自分にできることといえば、ぼくと関わった人への感謝と、その人の心のなかに、少しでもぼくの居場所がありますようにと祈ることだけでした。

それで心の澱がすべて清められたわけではなかったかもしれませんが、その夜、ぼくはぐっすりと眠り、翌朝をすっきりとした気持ちで迎えられたのです。

生に執着すれば不安が募り、死ぬと諦めると不安が去った、という経験はとても貴重で不思議なものでした。それは生き延びている今なお、常に頭のなかにあります。次に死ぬときは、ぼくはどう考えるのでしょうか。どうせなら生命を受けたことを感謝しながら死んでいきたいものです。

日記を読み直すのはデジタルデータの方がよさそう

DayOneというMacとiOSで使える日記アプリがありまして、以前はこれで日々の出来事を記録していました。このたびメジャーアップデートするというので、新しいのを買うかどうかはともかく、すべてのデータを取り出しておくことにしました。

このアプリはわりときれいなフォーマットで簡単にPDFに出力してくれるのがいいところ。これまでのデータはA4サイズで512ページになりました。一番使っていたのは3年前の入院時で、手元にあるiPhoneでとにかく記録をつけていたのでした。そのころ書いていたものをあらためて読みなおすと、どのような思いで手術に臨んだのかありありと思い出すことができます。

入院前にはこんなことを書いていました。

2013年3月27日水曜日 20:09
出征前の若者はこんな気持ちだっただろうか。大なり小なり自分の人生に落とし前をつけて戦争へといったのだろう。ぼくはそして必ず負傷して戻ってくるわけだ。
手術後には、身体的、精神的苦痛が、自分の人間性について試みるだろう。その時ぼくは何を感じるだろうか。怒り、嘆き、絶望し、あるいは嫉妬し、ありとあらゆる負の感情が襲ってくるだろう。

このころは、自分の考え方、生き方が手術によって変わってしまうのではないか、本当に苦しい時に自分がどうなるかわからないという不安を感じていました。けれども手術日にはそういう気持ちが失せて、淡々と臨んで行ったようです。手術直前には、泣き言を書いていませんでした。

2013年4月4日木曜日 7:26
朝の採血で起こされるまで寝てた。睡眠時間は十分だ。Macを取り出してインターネットでのリプライに返事を出す。懐かしい人からもメッセージをいただいて感激した。
髭をそり、歯を磨き、身だしなみを少しでも整えていく。あとからシャワーも浴びるつもりだ。
ふと尿意を覚えてトイレに行く。この感覚が今日を限りに永遠に失われるのだと思うと切ない。たかがトイレなのに。今日、切り取られるとも知らず、きちんと生体反応をしている膀胱が健気でもある。

何年も経ってから、自分の書いたものを読み返すと新鮮な感じがします。こうしてすぐに過去にアクセスできるのは、デジタルデータならではのことで、なかなか良いなと思いました。

退院後は、ノートに手書きで日々の記録をとるようになり、だんだんDayOneを使わなくなっておりました。確かにアナログでの記録は、良いものです。手を動かして書くことで思考が整理されていく感覚は、ノートに手書きでなければ感じ得ないものだと思います。

しかし、あとから検索したり参照したりするのに便利なのは、圧倒的にデジタル記録なんですよね。何百ページもあるデータから目的の言葉だったり、日にちだったりにほんの一瞬でたどり着けるのですから。

こうした日々の記録はできるだけ一つにまとめておきたいものです。そうなると、デジタルで記録すべきか、アナログで記録すべきか、はたと迷うのです。手書きは手書きの良さがあり、電子データは電子データで良さがあるんです。どうしたものかなあ。

ちなみにDayOneアプリの販売元はこちら。好きなアプリなんでぼくは購入しましたが、気軽に買えるお値段ではなくなってしまったのが残念です。また、現段階ではiOSとMacとの同期にも難があるように思われます。

アブローラーで便秘が解消したお話し

アブローラー知ってますか。腹筋ローラーともいうそうです。一輪車のタイヤの両側に取っ手がついているような形をしています。この取っ手を握って体を支え、前後に動かすことで腹筋を鍛えられるというわけです。

以前、たるんだ腹を何とかしようと思って買ったのがあるのです。しかしいざやってみるとこれがなかなかキツイ運動でして、おまけに手術で腹を切ったところがめちゃくちゃ痛かったり、腹筋が攣ったりするもんだから投げ出してしまっていました。

それが最近は、定期的にこのアブローラーで腹筋運動をしています。これをすると、実に便通がよくなることを発見したのです。

年明けから重度の便秘に

年が明けてからずっと便秘に悩んでおりました。以前も書いたことがあるのですが、代用膀胱が入っているぼくの場合、便通が悪いと排尿も悪くなるので、便秘は結構深刻な悩みです。そのため緩下剤として酸化マグネシウムが処方され、毎日飲んでいます。その他にも、よほど深刻なときのために使う座薬も処方されています。

今回の便秘はかなりひどくて、酸化マグネシウムの量を増やしても、座薬を入れてもあまり効果がありません。出そうで出ないというのは辛いです。あんまり出ないと気持ち悪くさえなって、腸閉塞ではないかと思ったほどです。

便秘の要因として思い当たることといえば、運動不足です。最近は多忙や天候を言い訳にして自転車にも乗ってないし、歩いてもない。活動量計の歩数は目標の9千歩に遠く及ばない毎日です。運動不足だと、筋肉も衰えるし、腸の動きも鈍くなり、力んでもなかなか出ないのでしょう。

そこで目についたのが、床に転がっているアブローラー。これなら時間も取られないし、天候も関係ありません。腹の傷もだいぶ癒えたことですし、もう一度やってみようかなと思ったのです。

膝をついて10回するだけで便秘が解消

慣れてくると立ったところから体をくの字に曲げて、このアブローラーを転がせるようになるそうですが、一番最初はそんなことはできません。がっかりした感情を表すアスキーアートでorzというのがありましたが、あんな感じで膝をつき、アブローラーで体を支え、体を押し出すように転がして元に戻る、という運動を繰り返します。

最初の日はそれを10回やりました。たったそれだけで、翌日は腹筋が痛くなっているのですから驚きです。もう一度アブローラーを転がそうと思っても、なかなかできないくらい痛いのです。

その次の日はまたなんとか10回位できるようになりました。最初に比べてそれほど腹筋が痛くないのがわかります。こうなると毎日少しずつできるようになるのです。

すると、なんということでしょう。非常に良い便通があるではありませんか。あれほど頑固な便秘がするりと出るようになりました。さらに、アブローラーを続けていると、排便も定期的にあるのです。きちんとした排便があると、排尿もきちんとできるようになり、嫌な残尿感もなくなりました。アブローラーありがとう!

アブローラーは安くて効果抜群

腹筋をバキバキに割るのが目的でアブローラーをする人も多いようです。通販では千円前後と安価な割には、腹筋への効果は抜群です。筋トレするならひとつ持っていても損はないと思います。

ぼくはさすがに年ですし、まだ膝を立てて10回やるだけで、精一杯というところです。とても腹筋バキバキまではできません。それでも、排便がきちんとできる程度の腹筋になるために、これからもアブローラーをしていこうと思います。