「犬を飼いなさいませ、犬は情操教育にいい」
今年の夏、面談中に校長先生が言いました。
長男の問題行動は中学校でもおさまらず、しばしば学校に呼ばれることがあります。そうして面談をしながら、どうしたら彼に自信を持って毎日が暮らせるようになるのかという話題になったとき、そういう話が出たのです。
昨年の今頃、猫のミライを逃してしまい行方知れずにしてしまってから、ペットはしばらく飼うまいと思いました。ですから、犬を飼えと言われても、全然気持ちが向かいませんでした。しかし、ミライの失踪から一年がたとうとする秋も終わりの頃、子供たちがまた動物を飼いたいと言い始めたのです。
最初は取り合いませんでした。ニャン太が死んだときに感じた悲しい思いを忘れたのか、ミライがいなくなったときのみんなの暗さを思い出さないのか、と。すると、猫がだめなら犬がいいというのです。
猫は放っておいても自分の世界を生きていくが、犬のお世話は猫と比べものにならないくらい大変なんだぞ、というと下の子が、「お世話はぼくがするから」と言います。たいていの子供はそういうのでしょう。そして、結局は親が世話をすることになるのです。
けれども、そのときに夏の面談での校長先生の言葉を思い出しもしました。ちょうど近々保健所で譲渡会があるというチラシも見かけました。これも導きかもしれないなあと思いつつ、やはりためらいもあります。
(まあ譲渡会へ行くだけ行ってみるか、その上で飼うのが厳しいとわかれば子供もあきらめるだろう…。)
譲渡会当日、下の子をつれて出かけました。猫の方が多いような印象も受けましたが、犬も十数匹いて、案外子犬も多くおりました。これだけいると犬の容姿もそうですが、性格も様々です。生後数ヶ月の子犬たちは、世間知らずですから物怖じせずに走り回っているのやら、無邪気にじゃれ合ったり、人に愛想を振りまいていたりするのもいてずいぶん人気です。一方月齢が少し上がった成犬たちの中には、ぶるぶる震えておびえているのもいました。
彼らは、なんといっても保護犬なのです。捨てられたのか持ち込まれたのか、人の愛情を受けられず、あわや殺処分の手前までいったのを連れ出されて、ようやく預かりさんが世話をしている犬たちです。人間に対する恐怖も不信感もありましょう。
下の子は最初こそうじうじしていましたが、そのうちジャック・ラッセル・テリアのまじったような、活発な子を気に入り、ずいぶん遊んでいました。けれども活発な犬は、あっという間にもらわれて行きます。すごい残念そうで、こうなると是が非でも犬が飼いたいとごね始めました。
ずいぶん困っていると、一匹子犬でありながら、ずいぶんおとなしいのがいました。柴犬のように見えて、全体が濃い茶色で鼻のまわりが黒い、むっくりした子犬です。抱き上げておびえることはありませんが、人に甘えることもありません。ただおとなしく抱かれているままです。
つい数日前に一人でいるところを保護されて、たぶん何もわかっていないのだろうということでした。
「どうだおとなしいのもよかろう、この子にしないか」
下の子は、さっきまでの活発さとは対照的なので、なんだか気が向かないようでしたが、だっこをするとすっと収まるのが気に入ったか「この子がいい」といいました。
もっともこちらがいいと言っても、譲ってもらえるかどうかは別です。譲渡会というのは初めて参加したのですが、条件やらなんやら厳しいと聞いていました。ところが、この子をもらい受けたいというと、
「それはありがとうございます、この用紙に誓約書があるので名前を書いてもらって、はあ、いつがいいですか、来週以降ならいつでも、じゃあこの日に…」などと、とんとん拍子で進み、あっけなくもらい受けることになりました。あんまりあっけなくて写真すら撮っていませんでした。
もちろんすぐすぐ連れて帰るわけにも行かないので、それからしばらく準備をしてきました。嫁さんは外で飼えばと言いましたが、まさか生後数ヶ月の子を外に出すわけにはいきません。うまくしつけることができれば、室内飼いだって大丈夫じゃないかとも思っています。大きめのゲージにトイレ、クリートなどを購入し、迎え入れの準備が整いました。
昔げんたという犬が家にいて2006年に亡くなりましたが、犬を迎えるのはそれ以来になります。はたして、犬が家族に加わることで、どう暮らしが変わっていきましょうか。12月14日、今日迎え入れに行ってきます。
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