この数年、見知った人が病を得て鬼籍に入るのを次々と目の当たりにし、人生の儚さを感じます。
ぼくは若いときから病気持ちなので、それなりに知人が死んでいくのを目の当たりにしているのですが、若いときはこれほど「儚い」ということを感じておりませんでした。
若い頃に知り合った人たちは同じ病気の人が多かった。つまり同じ条件だったのです。当時の白血病は必ず最後は亡くなる病気であったので、あとに逝くか先に逝くかの違いはあっても、みんないずれは死ぬのだという思いだけでした。
けれども最近はそうではありません。ぼくよりも元気だった人が、ある日突然病となり、ほんのすこし闘病をしたと思ったら、亡くなってしまう。まだまだこれからという若さで亡くなってしまう。
その方々は、ぼくががんになって大手術をした数年前に、見舞いをくれたり、心配していただいたりした方々なのに、先に逝ってしまった。一方、心配や迷惑をおかけしたぼくは未だに生き残っているのです。
人の生き死には紙一重。健康そうに見えた人がこうして亡くなっていくならば、ぼくなど明日に人生が終わっても不思議ではありません。ならば、ぼくの人生とはなんであろうか、そんなことを考えます。
最近少し過労気味なのは違いありません。無理はしてはいけないとわかってはいるのですが、未明から夜まで仕事漬けの日々が続いています。会社を維持し、従業員と家族を養っていくためにはそうせざるをえないわけですが、ふと立ち止まればこの余裕のない暮らしに呪詛の一つも唱えたくなります。
けれども、人生の儚さに思い至るとき、ぼくは呪詛の言葉を飲み込みます。
日々の暮らしに汲々として、常に足らざるを覚え、あがきながら満足を得ることができず、不平を唱えながら死んでいくならば、その人生はあまりに虚しいのではないか。
なりたかった自分になれなかった過去を恨んでも仕方ない。今の暮らしの辛さを嘆いても仕方ない。あるかどうかわからない未来への不安で鬱屈するのも虚しい。だとしたら、今できることを精一杯やっていくことで、そのときそのときの喜びや、悲しみを味わうことこそが人生の充実というものではないだろうか。今はそう思います。
けれども、なかなか達観はできないものですから、今日そう思っても明日は日々の生活に恨みつらみをぶつけているかもしれません。それでも、人生の儚さというものは常に意識をしておきたいと思います。
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